コメと言えば白米というのが現代の普通の感覚でしょうが、かつては「赤米」というものがありました。
古代に「黒米」というのがあったということですが、黒米は内部まで色が着いていたのに対し、赤米は内部は白いものでした。
しかし、味が悪く様々な欠点があるため、江戸時代にはなるべく作らせないように強制されたこともあったのですが、訳あって農民が作りたがり、それが騒動の種にもなりました。
このような、「赤米」の歴史について、非常に詳細に論じられています。
律令体制が整えられ、人々に田を与えて米を作らせるという、班田収受の法が制定され、米の生産が国の運営の中心になるはずでしたが、実際にはそのような田というものが十分にあったわけではなく、特に水田で水利もしっかりとしたところは少なかったようです。
灌漑も十分にできず、ため池もまだ少なかったその頃には、十分に水を稲に与えられる場所は一部で、多くの田では水不足に悩まされていました。
そのような場所で栽培しやすい稲が「赤米」と呼ばれる品種だったそうです。
ただし、その当時から延々と平安・鎌倉・室町・江戸の時代に至るまで作られていた赤米が皆同じ品種だったかというとそうではなく、時代により違いがあるようです。
いつの頃か、中国かどこかから渡来した赤米があったために、「大唐米」と呼ばれたのですが、実際にそれが全国に広まったのかどうかもよく分かりません。
歴史的なコメの品種というものがどうであったのか、現物がほとんど残っていないためにはっきりとはしないようです。
なお、大唐米という名称から、いわゆる占城米との関係、とくにインディカ種であるかどうかも議論されていますが、どうやら日本にインディカ米が渡来して栽培されたということはなかったようです。
ジャポニカ種ではあったのでしょうが、ただしジャポニカ種にも相当な差があるため一概には言えそうもありません。
赤米と言われる品種は、上記のように「水利の不十分な土地でも栽培できる」という特徴の他にも、「早生種である」「色々な災害に強い」「炊飯した時に増える割合が高い」という利点があります。
しかし「脱粒性が強くモミがこぼれやすい」「丈が高く倒伏しやすい」といった欠点もあり、しかも何より「味が悪い」ということが大きな弱点でした。
このため、年貢として取り立てる領主としてはこの稲はなるべく作らせたくなかったようですが、農民の側からすれば条件が悪くてもなんとか収穫できるというのが最大の長所であり、特に水利の悪い田を持つ農民からは不可欠の品種だったようです。
なお、農業イコール水田稲作というイメージはごく近い時代になってからのことであり、多くは畑地でそこで栽培する雑穀類というものが農民の生活を支える作物でした。
年貢としては米を作り供出するとしても、自分たちが食べる分には麦やアワヒエなどを作っていたわけです。
ただし、麦類にも税を掛けようという時代もあったようで、酷税ということが多かったのでしょう。
赤米栽培ということをめぐって一揆が起きたこともあります。
江戸時代初期の1686年に信州松本藩の安曇郡で、赤米栽培を禁ずるという藩の通達に対し農民たちが反発し、首謀者とされた多田加助などが越訴の罪で処刑されました。
その地方では現在でも義民として語り伝えられているそうです。
赤米はノギと呼ばれる先端部が非常に長いのが特徴なのですが、それが付いたまま俵に入れるとかさばるために実際のコメの分量が少なくなってしまいます。
そのため、藩は年貢納入の前にそのノギを除去する作業をさせようとしたのです。
しかし、農民たちはただでも忙しい収穫後にそのような労役を増加させることはできないとして一揆に及んだのです。
ここからも見えるのは、北信地方ではその当時非常に広い範囲に赤米が栽培されていたということ、そしてまだ灌漑設備も不十分で特に水利の悪い田も多く赤米しかできないというところもあったということです。
日本は昔から水田で白米が作られていたというイメージで見ていると、違うこともあるようです。