この著者の本では、一橋大学の日本史入試問題についてのものを読んで非常に面白かったのですが、こちらの東大の入試に関する本の方が先に出版されており、続けて読んでみました。
おそらく、著者の相澤さんとしては一橋の問題の方がお好みのようなのですが、やはり東大の方が一般受けするという判断でそちらの方を先に出版したのでしょうか。
それはさておき、一橋大の入試問題では必ず現代史が出題されるというのに対し、東大では古代から近代まで(戦後史は出ないようです)幅広く出題されるようです。
歴史の入試問題と言うと、「丸暗記」「暗記量が多いほうが勝ち」といったイメージでしょうが、東大の日本史入試問題では到底そのような浅薄な丸暗記では歯が立ちそうもありません。
相澤さんは大胆に問題の出題者も推定しているものもありますが、どちらも日本史の学界では権威と言われる人たちであり、その時代時代の社会の根本についてしっかりと考え理解できていないと答えられないようなものになっていると感じます。
また、解答もすべて記述式で、何十文字かで簡潔に核心を外さずに書かねばならず、非常に程度は高いものと思います。
2011年の京都大学入試で、ケータイを用いた不正行為が発覚しましたが、相澤さんは「もし東京大学の先生方に聞けば”カンニングは許されない行為だが、我々はそんなことをして合格できるような問題は出題していない”と答えるはずだ」と書いています。
中には市販の入試過去問題解答例集の本(例の赤本です)にも触れてあり、その解答例ではまったくダメといった論評もされているという、興味深い記述もありました。
その例としては、2007年度問題の、1921年ワシントン会議の前に発表された、石橋湛山の論文、「一切を棄つるの覚悟」を読んで答えるという問題です。
これは、ワシントン会議で列強との協調外交を選ぶ政府に、さらに妥協を迫るというものですが、入試問題では次のように聞かれます。
問 文中の「唯一の道」をその後の日本が進むことはなかった。その理由を歴史的経緯をふまえ120字以内で説明しなさい。
赤本答え 日本にとって植民地や権益は資源供給地や商品市場で、特に満州はソ連に対する防衛拠点でもあった。ワシントン体制では米英に協調して権益維持に努めたが、度重なる経済恐慌や中国再統一の動きは軍部の暴走を許し、やがて政府も中国への本格的進出に同意した。
この回答例について、相澤さんは「二文目でなぜ協調外交が破綻した経緯について説明しなければならないのか。どうも納得がいきません。」と批判しています。
それでは、本書中に書かれていた事柄で興味深いことをいくつか書き留めておきます。
すぐに忘れそうだから。
日本の中世は、「源平の争乱に始まる武士の時代」から始まるというのが従来の考え方ですが、現在では「院政(後三条天皇の親政)」から始まる。
これは、「社会を実力で動かそうとする風潮が強まった」のがその時期からであるということです。
室町時代には在地の武士たちも含めた集団がある目的を共有するために結成されました。
これを「一揆」と呼びます。
彼らの誓約書には、書名を円形に書くものが見られます。
これは、「傘連判状(からかされんぱんじょう)」と言われ、統率するリーダーは居るものの、メンバーはお互いに対等な関係であることを示しています。
これは江戸時代の百姓一揆でも使われる形式ですが、その場合は首謀者が誰かを隠すという意味が強まりました。
江戸幕府が中期以降に幕府財政が悪化し、上げ米制という大名からの上納制度を実施しなければならなくなった理由について。
幕府の財政が悪化した要因としては、江戸の大火の復興費用、佐渡金山や石見銀山など幕府直轄の金銀鉱山の生産量の激減、旗本御家人の増加に伴う人件費増などがあります。
しかし、根本的な幕府の経済体制にその最大の要因が最初から含まれていました。
幕藩体制は、米の生産と流通を基本としており、農民の収める年貢(米)を基本とする財政体制でした。
これを本百姓体制と呼びます。
しかし、このように年貢がすべて米であるということは、これを換金しなければ幕府や各藩の支出もできないということから、米を売却して貨幣に換えるという貨幣経済をも前提としていました。
したがって、大阪を中心とする全国流通網の発達も必然でした。
しかし、このような体制では年貢の増加がイコール幕府や藩の増収とはなりませんでした。
江戸時代初期に諸藩が進めた新田開発で、米の生産量は増えたものの、その時期に人口は大して増加せず、米の供給過剰が起きました。
その結果、市場原理で米価の下落が起き、幕府や各藩の財政が厳しくなるのも必然でした。
昭和時代初期に、政党が議席数に応じて政権を取るという、政党内閣制に類した状況があり、これを「憲政の常道」と呼びました。
議院内閣制の制度もないのに、なぜこのようなことができたのか。
これは、大日本帝国憲法の枠の中に触れられていない「元老」という存在が関わっていました。
伊藤博文、山県有朋などが元老として非公式ながら権力を握りましたが、次々と死亡し、昭和初期には西園寺公望のみとなっていました。
西園寺がその政党内閣を支持したことで、「憲政の常道」は機能しました。
このように、「民主的な運用」は可能だが、そのためには「元老」というものの支持が必要であったのが、大日本帝国憲法の問題点だったと言えます。
その意味で、最後の元老と言える西園寺が1940年に亡くなり、その翌年に太平洋戦争に突入していくというのは、偶然ではないと言えます。
入試問題と言えど、高校教科書をそのまま尋ねるようなものではないということが良く分かります。
しかし、本書で引かれていた東大入試問題、ほとんど答えることができなかった。
まだまだ勉強が足りません。