爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「粋を食す 江戸の蕎麦文化」花房孝典著

食べ物で江戸(東京)の名物とされてきたものには鮨、天婦羅、うなぎ蒲焼、そして蕎麦が挙げられます。

しかし先の3つはどれも江戸湾で上がった魚などが食材となっており、だからこそ「江戸前」と言われていました。

それに対し蕎麦は江戸時代であっても江戸周辺で収穫されていたわけではありません。

蕎麦の生産地は信州をはじめ地方ですがそこから江戸まで運ばれました。

それでも江戸の食べ物としては蕎麦は一番重要な位置を占めているとも言えます。

蕎麦は「粋」とも密接に関わっており、蕎麦粉自体は地方の生産地の方が良いものがあるとしてもその作り方、食べ方まですべてが「江戸の粋」を体現していると考えられ、田舎蕎麦とは違う江戸の蕎麦というイメージが形作られてきました。

ただし、そこには多くの勘違い、伝聞の間違い、聞きかじりの生半可な知識が集まり色々な誤説も入り込んでいるようです。

 

信州をはじめとする蕎麦の生産地では米は年貢として納めてしまうので蕎麦は自分たちが食べる重要な食糧でした。

しかし江戸には年貢米の多くが集まってきたため、庶民でも日常的に白米を食べることができました。

そのため、蕎麦はあくまでも小腹の空いた時の間食という扱いであり、蕎麦屋の一食分もわずかな盛しかありませんでした。

蕎麦で腹いっぱいにしようという行為も無粋と見られました。

そのような量が多くひと盛で満腹するような蕎麦は「馬方蕎麦」と呼んで軽蔑したものです。

 

今でも気の利いた蕎麦屋では客に茶は出さないそうです。

蕎麦は香が命ですが、同様に茶も香りですのでそれがぶつかってしまうと考えられたのでしょう。

同様に蕎麦は米で作られた酒の味と香りも奪ってしまうと考えられていました。

蕎麦屋では酒を飲むというのが当然のように思われていますが、これはあくまでも「蕎麦屋で酒を飲む」のであって「蕎麦で酒を飲む」のではないということです。

それでも昔の蕎麦屋は他の飲食店以上に酒の品質は吟味しており、うまい酒を飲みたければ蕎麦屋に行くというのも良くあることでした。

そのため、蕎麦屋では蕎麦以外に酒のつまみとなるような料理が出されるようになります。

そして蕎麦は飲んだ後にさっと一杯食べて帰ってくるということになりました。

 

このような蕎麦文化が出来上がってきたのは、どうしても「蕎麦きり」というものの誕生が必要でした。

蕎麦自体はすでに奈良時代から救荒作物として栽培され食べられていましたが、その食べ方は雑炊や粥、そして蕎麦がきのようなものでした。

それを伸ばして麺のように切って食べることで売りやすく食べやすいということになりました。

それがいつ始まったか、やはり広く広がったのは江戸時代に入ってからのようです。

ただし、そのような食べ方には先行して「麦切り」というものがありました。

小麦粉を練って伸ばして切って麺にする、すなわちウドンなどのようなものです。

そこから蕎麦もそのように使われるようになりました。

 

現在でも蕎麦のつなぎとして小麦粉が使われており、あたかもそれは安い小麦粉で水増しかのように言われることもあります。

そのため蕎麦粉100%を謳うのも高級感を出そうとしているかのようです。

しかし江戸時代以前では実は小麦粉の方が高級品、蕎麦粉は安いものでした。

そのため、「麦切り」の嵩増しで蕎麦粉を混ぜたというのが本当のところのようです。

「二八蕎麦」というものがあり、これは蕎麦粉と小麦粉の比率だと言われることもありますが、(実際には売値が十六文というところから来たようです)、その比率も「小麦粉が2で蕎麦粉が8」と考えるのが現代では普通ですが、逆に「蕎麦粉が2で小麦粉が8」とする記録も残っているようです。

 

他にも蕎麦にまつわる落語、小噺、川柳なども取り上げており、江戸の頃の蕎麦というもの全体を見ることができるようになっています。

暑い時期にはありがたいのがざるそばですが、まああまり気取らずに食べたいものです。