爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「孔丘」宮城谷昌光著

孔丘とは儒教の始祖孔子の本名です。

通常は「孔先生」という意味の孔子としか呼ばれることはありませんが、それをあえて本名の丘を使ったところに宮城谷さんの意図もあると感じます。

 

漢の時代以降、儒教は多くの帝国の国教となり、その始祖である孔子は尊崇の対象となりました。

そのためか、実際の孔子の生の姿というものはほとんど知られることも無くなりました。

 

宮城谷さんの意図は本書「あとがき」にも書かれています。

 

五十代に一度、孔子を小説に書けないかと思い資料を集めるなどの作業を行ったが行使を小説にするのは無理だとあきらめた。

七十歳をすぎたとき、神格化された孔子を書こうとするから書けなくなってしまう。失言があり失敗もあった孔丘という人間を書くのであればなんとかなるのではと肚をくくった。

 

参考とした資料も、「論語は重すぎ、史記孔子世家は軽すぎる」ので「白川静氏の孔子伝と加地伸行氏の孔子しか読まなかった」ということです。

 

このようなわけで、まだ儒教としての力も無く、異端の学者として嵐にすぐに吹き飛ばされそうな存在として人間の孔丘として描かれています。

 

論語の中に書かれている有名な言葉の出た状況というものも描かれています。

 

魯の国を追われた孔子は各国をめぐるのですが、衛の国に滞在した時そこの端木賜という者が弟子となります。

彼はその後子貢という字で知られるようになります。

孔子が彼に「汝と顔回とどちらがすぐれているか」と問い、「顔回は一を聞いて十を知るが私は一を聞いて二を知るだけです」と答えたというのは論語でも有名な一節です。

この会話が衛に逃れた時のことだということは、あまり意識できていませんでした。

 

この、国を追われる元となった事件も、取り立てられた孔丘が理想を追うあまりに一国一城の原則を追求しようとして、勢力のある貴族の城を崩そうとしたためだということも、改めて認識できました。

その城壁は確かに貴族たちの反逆の手段ともなるものですが、他国からの侵略に対する防御でもあり、それを崩されるというのは貴族たちにとって大きな衝撃となったでしょう。

そりゃ、追放されても仕方ないなということです。

 

中国の歴史の中では影響力といったら最強とも言える孔子ですが、その実像に少しでも近づけたのでしょうか。

 

孔丘 (文春e-book)

孔丘 (文春e-book)