先日読んだ「新現代歴史学の名著」という本の中で紹介されていたものです。
それに惹かれていつもの市立図書館の蔵書を調べたらあったので、借りてみました。
著者のダワー氏は1938年生まれのアメリカの歴史学者で、終戦時にはまだ7歳、終戦後の日本というものを実際に見聞きしたのではないのですが、その後研究対象としてきました。
その記述はたいていの日本人よりは深くかつ正確で、日米双方の当事者に対しての批判的な見方には偏りはなく、極めて公平なものと感じられました。
本書は上下二巻に分かれており、今回は上巻のみ読みました。
上巻では終戦直後の敗者たる日本人の悲惨な状況、その中で生きていかなければならなかった人々の姿、そしてアメリカ軍の強制とはいえ民主化を進めなければならなかった日本各地の人たちを描いています。
まず最初に強調されたのが、アメリカ占領軍(国連軍とされていましたが、実質上は完全にアメリカのみの統治です)が日本を軍事独裁から解放したかのような印象を広めましたが、実際にはその統治は権威主義的な支配であり、日本人は軍事支配を1945年8月で抜け出したと考えられていますが、実際にはそれは1952年まで続いていました。
天皇とその官吏が不可侵の権力構造を作っていた戦前の体制のその上に、マッカーサーの占領軍が乗っかってさらに不可侵の体制を作り上げました。
その悪影響が戦争で大きな被害を受けたアジア諸国に及びました。
アジア諸国は日本に対して直接の補償請求などを行う術を失い、アメリカを通してしか何もできないことになりました。
またアメリカ人たちは占領政策を直接自分たちで行うことはせず、すべて天皇の官僚組織に依存しました。
アメリカ人が去ったあとには官僚組織がそのまま権力を維持し、かえって戦前より強化されたかのようでした。
それを行うためにマッカーサーは天皇の戦争責任だけでなく道義的責任すら免除しました。
結局「戦争責任」という言葉はほとんど冗談のようにされてしまいました。
わずかにほんの少数の最高指導者だけが戦争裁判で見世物のように行われただけでほとんどがうやむやにされたのも、占領軍の政策のためでした。
第二次大戦後に多くの日本人が過酷な状況に置かれましたが、中でも海外に出ていた日本人たちの運命は悲惨なものでした。
敗戦時にはおよそ650万人がアジアや太平洋の各地に取り残されました。
そのうち350万人は兵士でしたが残りは民間人で女性や子供も多数でした。
これらの人々の帰国は遅れました。
ソ連によるシベリア抑留が有名で、多くの人々が死亡しましたが、他の地域でも程度の差はあれ同じようなことが行われました。
アメリカもフィリピンや太平洋地域の軍事施設建設のために70万人以上の日本人を拘留、中国は国共内戦のために両陣営に日本人兵士を従軍させその数は7万人近くにのぼりました。
戦争の犠牲者というべき人たちへの冷酷な扱いもひどいものでした。
親を失った戦争孤児や、夫が戦死した戦争未亡人、ひどい怪我を負った傷痍軍人、広島長崎の原爆被災者など、救いの必要な人たちに対して何の救護もしないばかりか差別し排除していきました。
そのような人達が何とか生きていくための手段として選んだのが、第3章の中でも扱われているように「パンパン」「闇市」でした。
1946年撮影の写真というものが掲載されていますが、子どもたちの遊びとして「パンパン遊び」の様子です。
意味は分からないままでしょうが、GI帽子をかぶった男の子と女の子が手をつないでいます。
他にも子供の遊びとして「闇市ごっこ」「デモ遊び」があったそうです。
終戦直後の国内では物資の極端な不足、特に食料がほとんど渡らないという状況になりました。
東京地裁の山口判事が配給の食料以外は食べずに餓死したのが1947年11月のことです。
山口判事は法廷で闇市の食料を買ったということで捕まった人々を裁く業務を毎日のようにやっていて、有罪判決をしながら自分でも闇食料を食べるということに耐えられなくなったのでした。
このような状況をもたらした一因は敗戦直後に政府や軍の物資を大量に我がものとした高級軍人、政治家、官僚とその仲間たちにあります。
8月20日にはマニラの米軍は日本政府の降伏使節に「一般命令第1号」として日本軍の全資産は手を付けずに保管することを命令しました。
しかし、その命令はまったく無視されその後数日の間にほとんどの軍資産は持ち出されてしまいました。
そして、極秘情報を焼却すると称してほとんどの記録も焼かれたのですが、実はこの多くは物資の帳簿などを含んでおり、それが無くなったことで横流しの事実も不明となったそうです。
アメリカの占領軍の中でもいろいろな勢力争いがありました。
アメリカの中にも多くの日本研究者や以前からの日本通という人も多かったのですが、占領軍の中にはそういった人々はほとんど入っていませんでした。
マッカーサーを始め占領軍の中心はほとんど日本の事情にも文化にも興味をまったくもたない連中ばかりでした。
これは日本降伏の少し前になって急激に進んだ米軍内の勢力変化によるものでした。
もしも1945年初頭に天皇側近が目論んだような降伏交渉がうまくいっていれば、都市空襲や原爆などで100万人以上の生命が助かったことでしょうが、それとともにワシントンでの占領政策の急進化も進まず、戦後の日本の占領政策がかなり違ったものとなっていたかもしれません。
1945年初めには戦後日本に民主主義革命を起こそうという計画は無かったからです。
その後の半年でワシントンの勢力図は大きく変わり、そういった勢力が力を持ったためにこのような事態となりました。
非常に興味深い内容でした。