今年も太平洋戦争の敗戦の日となり、「戦争はいけない」という言葉が響くことが多くなっています。
しかしその言葉の中身を考えようともせず、かつての戦争被害者(もう今では戦争経験者のほとんどが”被害者”ばかりとなっていますが)たちの悲惨な体験を紹介して「戦争はいけない」ということを繰り返しています。
「戦争はいけない」といっても、その中味には色々なものがありそうです。
どうも「負ける戦争はいけない」とでも言いたそうな人々がかなり多数になりそうです。
「勝てなかったからいけない」「勝っていれば良かった」とでも言いたそうです。
「自国民が死んだり怪我をした戦争はいけない」
被害さえなければ良かったとでも言いたそうです。
そうすれば、ボタン一つで飛んで行って悪の帝国をやっつけるミサイルなら良いのでしょうか。
もちろん、そのミサイルが飛び出した次の瞬間には相手からの反攻のミサイルが飛び出し、自国も相手国も消滅してしまうのでしょうが。
これから先の時代では、ドローンや無人兵器の使用も有力です。
これなら「自国民は死なない」から良いのでしょうか。
もうすでにドローン攻撃で死亡している人も多数出ています。
これもアメリカ人は死んでいないから良い戦争なのでしょうか。
太平洋戦争は侵略戦争だったからいけない。防衛戦争なら良い。
と言う人もたくさんいます。
しかし、中国や東南アジアに侵略していった大東亜戦争も、当時の日本の人々は「日本の生命線を守るため仕方なく起こした」と考えていました。
ベトナム戦争すら、アメリカ人は共産国の侵略から自由主義を守るために起こしたと思っていました。
自衛のための戦争という口実は限りなく拡大されます。
南シナ海の小さな島、地図を見ても日本人のほとんどがどこにあるのかも知らない島を中国が占領したら、国土を守るために戦争を始めるのでしょうか。
この尖閣諸島が取られたら、次は沖縄が、そして九州が取られると煽り立て自衛戦争を遂行するのでしょう。
本当に戦争はいけないのであれば、尖閣諸島を取られても我慢するのでしょうか。
沖縄が中国領になっても我慢するのでしょうか。
(その割には事実上アメリカ駐留軍領となっているのに何も言わないのも寛大な態度でしょうが)
「戦争はいけない」という大合唱が、いかに中身のない空虚なものであるかを感じ取れないとしたらあまりにも鈍感な感受性でしょう。
少なくとも、そこに「次の戦争につながりかねないものは否定していく」という態度がなければ、非道徳的と言わざるを得ません。
首相の挨拶もあるでしょうが、これこそまさに非道徳の鑑のようなものでしょう。
小学校の道徳授業で「このような大人になってはいけません」という反面教師として教育すれば、効果も上がるかもしれません。
それでも言うか。
今年も多くの「非道徳の鑑」たちを観察できるのがこの時期の特徴かもしれません。