「皇族」というと、天皇の兄弟や従兄弟、そしてその子や孫といったイメージを持っていましたが、一方では「元皇族」という人々が現れたりして、あれはいったい何なんだと思ったり、ほとんど知識を持っていませんでした。
この本の著者の小田部さんは近現代史が専門の歴史学者ですが、特に皇室の歴史を研究されてきたようで、この本はその中でも「皇族」という人々について詳しく書かれています。
現天皇のごく近い親族、前天皇の兄弟やその子などは直宮(じきみや)と呼ぶそうで、現在はこれのみを皇族としていますが、戦前までは宮家という皇族の人々が居ました。
伏見宮や有栖川宮といった宮家がそれですが、こちらはかなり古い時代に天皇家から別れ、その後長い間宮家として存続してきたそうです。
皇族といっても時代によって定義は変わってきました。
この本ではその変化について4つに分けて分類しています。
第1期 701年大宝令継嗣令まで 天皇の後胤
第2期 701年より1899年、旧典範制定まで 5世未満を原則とするが世襲制の親王家が存続
第3期 1899年より1947年、新典範制定まで 女子配偶者も皇族とする。新宮家の創設と廃止
第4期 1947年以降 新典範下 明治天皇の男系とその配偶者たち
明治時代に旧皇室典範が制定されるまでは天皇や皇族男子の配偶者は皇族とされていませんでした。
今であれば皇后や皇太子妃も皇族ではなかったことになります。
しかし、旧皇室典範制定からはそれは無くなりました。
ただし、戦前では皇族の配偶者は皇族の中から選ぶのが原則であり、それ以外でも旧大名家などの華族からに限られていました。
また、旧皇室典範では宮家皇族として伏見宮家など15宮家を皇族とすることが規定されました。
しかし、同時に直系男子以外の相続を認めず、養子はできないこととしましたので、男子が産まれない宮家は徐々に廃絶していきました。
これで有栖川宮、華頂宮などは次々と絶えていくことになりました。
明治天皇の皇后は五摂家の一つ一条家の美子でしたが、実子は生まれませんでした。
しかし明治天皇には夜伽をさせる女官が何人も居り、その中の一人柳原愛子に男子が生まれ、大正天皇となりました。
このような側室制は諸外国が認めないと考え、大正天皇以降はそれを廃することとなりました。
そして、それが天皇家の男子減少の危機ともなりました。
明治の旧皇室典範で皇族の地位が確保された宮家の人々は、相応の収入はあったものの仕事としては軍務以外はできなかったため、多くの皇族が軍人となりました。
陸軍に多かったのですが、名前だけだったにせよ司令官などの高位に着くこととなりました。
それがその後の太平洋戦争までの時代に大きく影響することになります。
戦死、戦病死する皇族も何人も出たのは仕方ないことでしょうが、他にも軍内部の軍縮派と軍拡派の抗争に巻き込まれて、神輿に担がれようとした人々も出ています。
また政治や軍事に関する発言を重ねる皇族も出て、天皇は対策に苦慮することとなります。
太平洋戦争敗戦後はGHQの方針で天皇家自体は残すものの皇族はほとんどが整理されることとなりました。
大正天皇の子供の宮家のみを残し、その他の宮家はわずかな財産のみを残して皇室から切り離されることとなりました。
大正天皇の男系皇族もすでに秩父宮、高松宮は絶え、三笠宮家も男子が産まれません。
平成天皇の弟の常陸宮も子供はなく、現天皇の弟秋篠宮の子供のみが男子ということになっています。
さて、どうなるのでしょうか。