爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「コロナでだけは死にたくない」とはどういうことか、リスク学研究者永井孝志さんのブログより

リスク学研究者の永井さんのブログが非常に興味深い内容で発信されていますので、注目していますが、今回は「コロナでだけは死にたくないとはどういうことか」と題され、「良いリスク」と「悪いリスク」について書かれています。

nagaitakashi.netどうせ死ぬのは一緒と思いますが、それでも「コロナでは死にたくない」と考える人が結構多いのだとか。

 

その意識はどういうものか、ちょっと分かりにくい点もありますが、医療関係者(どうやら永井さんのご家族もそのようです)によれば、診察に来る高齢者で結構そう語る人がいるようです。

ガンなど、多くの人が死ぬ病気で死ぬのは良いが、?コロナウイルス感染などまだ日本では少ない死亡原因のもので死ぬのは嫌?

 

どうもそれだけでも無いような気もしますが、実際に「良いリスク」「悪いリスク」という意識があるのは確かなようです。

 

利用可能性ヒューリスティック」というものがあり、あるリスクで頭が一杯になると他のリスクへの備えがなくなってしまうということがあるようです。

今回もテレビなどではずっとコロナウイルスのことばかり報道しており、他のリスクは頭から離れてしまうということもあるのでしょうか。

コロナウイルスでの死亡率は、決して少ないとは言えないものの火事と交通事故の間ぐらい、人類滅亡などには至らないことは確かと言うことですが、やはり眼にする機会が多すぎるのでしょう。

 

もう一点、「感情ヒューリスティック」というものがあるようです。

これは、まず「その対象を好きか嫌いかで判断し、そのリスクやベネフィットは後付けて判断される」という思考過程だそうです。

自動車などは非常に大きなリスク源ですが、「自動車が好き」と言う人も多く、そのためにリスクとしての認識が甘くなるということでしょう。

一方、コロナウイルスは「好き」と言う人はまず居そうもありません。

そのため、最初から「悪いリスク」と判断され、「悪いリスクはリスクの強度も高いに違いない」と認知されるということです。

 

これに対し、専門家は科学的な判断でリスクの大きさを示し一般の市民のリスク判断のずれを正す必要があるのですが、専門家の分析もまだ行き届かないことがあります。

福島原発事故放射線汚染の影響もそうでしょうし、今回のウイルスのリスクの大きさの判断もそれに近いものでした。

 

市民の感情や価値観というものも無視するわけには行かないのですが、しかし感情だけで物事を決めることもできません。

専門家と市民が対立するのではなく、総合判断すべきであり、ここは「政治の出番です」と結んであります。

 

それが一番問題でしょう。

 

なお、永井さんは触れていませんが、コロナ感染で死亡した場合、死に際に家族が会えないとか、火葬が済むまで遺体が渡されないといった問題が非常に大きいものではないでしょうか。

もちろん、リスク論とは少しずれますのであえて取り上げなかったのかもしれませんが。