かつては、古代の日本に渡ってきた人々のことを「帰化人」と呼ぶことが普通でした。
しかし、現在であれば日本に渡ってきて条件を満たし日本国籍を取得することを「帰化する」と呼ぶのは当然ですが、まだ「帰化すべき」統一国家もあやふやで、「帰化」のあかしとなる戸籍も存在しない状態で「帰化人」と呼ぶのはおかしい。
そう考えて、1965年に著者の上田さんは「帰化人」という書を刊行しました。
これに対して、多くの反発もあったのですが、その後は帰化人という言葉は徐々に使われなくなり「渡来人」という方が普通になっていきます。
また、天皇家の血筋にも渡来人の子孫が入っていることも間違いないこととして認められるようになりました。
帰化という言葉は、近代に使い始められたわけではなく、古代から使われていたのですが、それは日本書紀に限られており、他の文書には渡来という言葉の方が多く使われています。
さらに、日本書紀でも帰化と扱われているのは朝鮮半島の諸国から渡来した人に使われ、中国本土からの人々には使われていません。
ここから、日本書紀編纂の時代に新羅、百済などの半島諸国を一段下に見た思想で使われたものと見られます。
しかし、その実態を見ていけば、古代の日本が国としての形を整えていった頃の中心は主に半島諸国からやってきた人々であることは疑いありません。
そこで、渡来人やその子孫たちの活躍を紹介しようというのが本書です。
秦氏、漢氏、高麗氏、船氏、百済王氏などの業績とその影響を見ていきます。
さらに、渡来人たちの伝えた文化という面から、文字の使用、道教と役小角、儒教と仏教、そして高松塚古墳やキトラ古墳に見られる壁画古墳について語っていきます。
国号を日本とし、君主の称号を天皇としたのは律令体制を固めようとした時代ですが、その思想は「日本版中華思想」というべきものでした。
その中で、本家の中国は蕃国と見なすわけには行かないものの、他の国は蕃国扱いをするようになっていきます。
続日本紀の文武天皇の条には、南方諸島の国からの朝貢を「中国へ通ずる」と書いています。
この「中国」とはもちろん唐のことではなく、日本のことを指しており、日本版中華思想そのものの現れです。
そして、この蕃国として半島各国も扱ったことから、百済新羅などから渡来した人々も蕃人扱いして「日本に帰化」と書くようになりました。
しかし、秦氏、漢氏の活躍を見るまでもなく、当時の朝廷を支えていたのは彼ら帰化人の氏族であり、朝廷の運営自体彼らが居なければできないものでした。
なお、秦、漢といっても中国のそれらの国とは直接は関係なく、秦氏は新羅系、漢氏は百済・伽耶系、高麗氏は高句麗系と考えられています。
また白村江の戦い以降滅亡した百済から、王族が渡来し、「百済王」という姓を名乗ることとなりました。
この百済王氏は桓武天皇とのつながりが強く、多くの娘を天皇の後宮に入れその外戚となりました。
桓武天皇への影響力も強かったものと見られます。
漢字の使用は大和朝廷になる以前の倭国の頃から始まっていたと見られますが、その担い手も渡来人であったと考えられます。
奴国のころにはまだ上表文を書いていたかどうかは分かりませんが、邪馬台国からは魏に対して「上表する」という言葉が使われていますので、何らかの書状を書いていたと見られます。
これらの漢字を扱った人々は史部(ふひとべ)としてその使用の中心となりますが、世代が下るごとにその知識は落ちていき、新たに渡来した「今来(今来)」の人に取って代わられることもあったようです。
仏教の伝来については多く語られていますが、道教や儒教の伝来はあまり注目されていないようです。
また、すでに儒教による社会規範ができつつあった半島からは、その思想も日本に伝来したと考えられます。
高句麗の頃の壁画古墳が発見されていますが、そこには明らかに道教文化の影響が見られます。
新羅、百済にもそれは伝わっており、そこから日本へも多くのものが伝わっていたのでしょう。
古代の日本、つくったのは渡来人と見た方が正しいのかもしれません。