NHK記者を経てノンフィクション作家となった柳田さんが、昭和といってもほぼ終戦時から20年ほどの間に起きた事件について、「事件の真相を解明することを狙いとしたのではなく、関係する人々がどのようにかかわりどのような心の動きをしたかを検証する」ということを目的として、その事件の事情に詳しい人、専門家を招き対談したものです。
取り上げられている事件は、「光クラブ事件」「造船疑獄」「山一日銀特融」「三井三池炭塵爆発」「三河島事故」「伊勢湾台風」など、広範囲にわたっています。
「造船疑獄」については、政治評論家の内田健三さんと、元検事の堀田力さんとの対談です。
昭和29年、海運会社や造船業界、運輸省官僚、政治家を巻き込んだ大規模な疑獄事件が起きました。
贈賄側、収賄側の多くの人々が検挙され取り調べを受けましたが、時の政権与党の自由党の幹事長・政調会長であった佐藤栄作、池田勇人の逮捕が迫った時に、当時の犬飼健法務大臣が指揮権を発動して捜査を終了させました。
犬飼法相はその後辞任します。
ぎりぎりで免れた佐藤、池田はその後総理大臣となりますが、この事件で逮捕されたとしても、裁判で有罪とするのは困難であっただろうということです。
それでも、この事件を転換点として、その後の政界では汚職もやりづらくなっていったそうです。
「三井三池炭塵爆発事故」では、水俣病研究で有名な原田正純さんと、ジャーナリストの櫻井よしこさんが招かれています。
知らなければなぜこの二人がと思うのでしょうが、原田さんは三井三池炭鉱事故の被害者のCO中毒のために現地に入って治療をされていたということです。
「豊かさと棄民たち 水俣学事始め」原田正純著 - 爽風上々のブログ
また、櫻井さんは薬害エイズ事件の取材をして、厚生省と専門家の結託ということを明らかにしていますので、この炭塵爆発事故にも同じ構造を見出しています。
昭和38年、福岡県大牟田市の三井鉱山三池炭鉱で炭塵爆発が起き、死者458人、負傷者839人の大事故となりました。
しかし、死者のうち爆死したのは20人だけでその他の犠牲者はすべてCO中毒であったそうです。
負傷者もCO中毒の後遺症に苦しみました。
しかし、この爆発事故は公的には原因不明とされ、炭鉱の責任者の誰も刑事責任は問われませんでした。
そこには、政府の技術調査団が当時の九州大学名誉教授であった山田穣を中心に会社側の責任を問わずにうやむやにする報告書を出したということがありました。
さらに、炭鉱の専属の病院であるにもかかわらず、そこの医師にはCO中毒に対する知識が無く、安易に「CO中毒には後遺症はない」といういい加減な記事を信じているというお粗末さがありました。
政府と会社側の姿勢も原因を突き止めて対策を講じようというものではなく、とにかく早く復旧させて採鉱を再開させたいというばかりでした。
ここには、当時の石炭需給の逼迫が関係し、何でもよいから結論を出して再開をというだけのものでした。
こういった姿勢は、薬害エイズを始めとする薬害事件の構図とも重なります。
調査団長であった山田穣は、薬害エイズ事件での阿部英とも重なります。
昭和37年、常磐線の三河島駅構内で貨物列車が停止信号を見落として進み、そのまま側線に入って脱線します。
そこで傾いた機関車に横を走っていた電車が衝突します。
その事故はそれほどひどいものではなく、ここでは死者も出ていなかったのですが、ぶつかった電車から乗客がドアを開けて線路に降り、駅の方へ歩き出しました。
そこへ、反対側から電車が突っ込んできました。
線路を歩いていた乗客たちを跳ね飛ばし、さらに脱線して止まっていた車両に突っ込んで土手の下に転落するという大事故になり、死者160人という被害を出しました。
実は、同じ常磐線で昭和18年という戦時中に、この三河島事故とほぼ同様の状況での事故が土浦駅で起きていました。
戦時中ということでほとんど報道もされなかったのですが、国鉄自体の記録もほとんどとられていないということです。
これがきちんと原因と対処を考えられていたなら、三河島事故は起きずに済んだかもしれません。
なお、このような事故があっても事故調査委員会というもので調べるということがなく、第一に警察の捜査が優先されてしまいます。
この事故でも機関車の運転士や駅の助役、信号係などが起訴され、8人が有罪となっています。
しかし、このような警察捜査というものは、鉄道側の原因調査と根本的な対処策の策定にはじゃまになるばかりです。
この時の鉄道の報告書では「指導・訓練の徹底」と「人事管理の強化」が出されただけでした。
鉄道事故が起きた場合、幹線では特に次々と続けて列車が近づきますので、後続列車を近づけないようにすることが最重要となります。
これを間違いなくやらせるというのが、必須の対処なのですが、それがなかなか行き渡っていないようです。
JR西日本で、2005年に尼崎で列車がカーブを曲がりきれずに脱線しマンションに突っ込むという大事故が起きました。
この事故は運転士の操作ミスで起きたのですが、畑村さんが事故現場を視察した時に驚いたのは、事故現場のすぐ近くにまで後続の列車が近づき、ぎりぎりで止まっていたことです。
ここでも、「後続車をすぐに止めるよう連絡する」ということがスムーズに行われず、危ないところで二次・三次事故が起きなかったと見られます。
しかも、その後分かったことで、踏切の非常ボタンを押したのは乗務員などではなく、「近所に住む女性」だったそうです。
彼女が非常ボタンを押していなかったら、もしかしたらもっとひどい事故が起きていたのかも。
事故という「失敗」を活かそうとしないのが日本の安全意識なのでしょう。
他にも伊勢湾台風の高潮被害についての言及もありますが、略しておきます。
私が幼稚園のときで、その頃名古屋市千種区に住んでいたので関係は深いのですが。
一つ、覚えておくべきことは、東京も大阪も危険はあるということです。
特に、地下鉄、地下街は要注意。