爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「豊かさと棄民たち 水俣学事始め」原田正純著

水俣病が世に知られるようになった最初の頃から医師として関わり、患者の立場に立ってきた原田正純さんについては、これまでも佐高信さんが書いた伝記を読んだことがありました。

sohujojo.hatenablog.com

今度はご本人が振り返って書かれたものを読んでみました。

本書の題名にもある「水俣学」とは、この本を書かれた当時に勤めておられた熊本学園大学で担当されていた講座での講義名です。

メチル水銀中毒としての水俣病を見るだけにとどまらず、その裏にある社会のひずみや国・企業の姿勢の問題点などを捉えようとする意味があります。

 

さすがに、自身で書かれたものであるだけに、その当時に感じたことをそのまま思い出し文字にするということで、読んでいる方にもその時の感覚が伝わってくるようです。

 

本書の最初も、上記の佐高さんの本と同様に、原田さんが初めて水俣病の患者の家を訪ねて二人の子供に出会うところから始まります。

そして、そのあまりのむごさに衝撃を受けるのですが、そのときは単純に水俣病が発病したから周囲から差別されていると思っていました。

しかし、実際は「差別のあるところに公害が起きる」というのが真実であるということです。

それは、その後新潟の第二水俣病の現地やカナダの水銀中毒発生現場を訪れることでさらに確信を持つことになります。

 

1966年に熊本大学医学部水俣病研究班が刊行した「水俣病 有機水銀中毒に関する研究」という報告書があります。

そこには、「昭和28年発症した第一例が認められて以来、7年間に111例の患者の発生を見、その後の発症例はないが、41例が死亡、33例は入院治療中、完全に治療したものはない」とあります。

ここに「その後(昭和35年以降)の発症例はない」という見解がありますが、これは大きな誤りでした。

水俣病を急性劇症例に限定して考えていたため、また水銀濃度の測定すら行わなかったという杜撰な行政対応があったため、など色々な原因はありますが、これがさらにその後の対応を誤らせることになります。

 

今では誰もが知っている(と思われる)胎児性水俣病ですが、1971年すでに水俣病が水銀中毒であるということが分かっていた時点でもまだそれは証明されていませんでした。

当時の水俣病の常識としては「有機水銀を含む魚を食べて中毒になる」ということでしたので、魚を食べていなかった胎児や乳児は水俣病ではないと考えられていました。

同じような症状の兄弟であっても、魚を食べていた兄は小児性水俣病、弟は小児麻痺と判定して疑わなかったという状態がありました。

原田さんはそれに(当然ながら)疑いを持ちます。

当時の医学の常識では「毒物は胎盤を通らない」したがって、いくら母親が水銀を含む魚を食べていても胎児にそれが移動するはずがない。

したがって、その子供の病気は水俣病ではない。という診断が下ったわけです。

原田さんはまた水俣に向かい本格的な調査を行います。

しかし、状況としては間違いなく水俣病なのですが、医学常識が邪魔をします。

他の関係者も皆それを感じていても決め手がなかったので、中には「一人死ねば解剖できるから分かる」などという人もいたそうです。

そして、女の子が一人亡くなり、その遺体を解剖してはっきりしました。

メチル水銀胎盤を通過し胎児に蓄積して胎児性水俣病となることが証明されました。

 

第3章は、水俣とは少し離れてちょうどその頃に発生した三池炭鉱炭塵爆発事故の被害者の診察に原田さんが動員されたことを扱います。

死者は458人と、戦後最大の爆発事故だったのですが、原田さんたち熊大神経科の医師に依頼されたのはCO中毒患者の診察でした。

その当時の「医学的常識」では、CO中毒には後遺症はなく、その場で死ぬか完全に治癒するかどちらかだというものでした。

これは、アメリカの公衆衛生学者のシリトーという人物の書いた論文に、CO中毒の後遺症は0.2%とあるのを孫引きしただけのものでした。

実際は、その論文はまったく杜撰なものでそういった証拠は無いと言えるものでした。

原田さんはCO中毒患者の脳波測定を繰り返し、たしかに後遺症はあるということを証明するのですが、ちょうどその頃は炭鉱閉鎖に重なり組合闘争も激化しているころであり、その争いにも巻き込まれることになります。

 

カナダでも水銀中毒事件が起きているとユージン・スミス夫妻から連絡がきたのは1975年でした。

宇井純さんや宮本憲一さんらとともに、新聞社の後援を取り付けてカナダの調査に出発しました。

ここでも、中毒の患者は先住民だけでした。

移住者の白人たちは他に食べるものがあったので大丈夫、しかし先住民たちにはその余裕は無いので水銀を含んだ魚を食べてしまいました。

白人たちは彼らをアルコール中毒とみなしました。

ここでも「公害があったから差別される」のではなく「差別されているところに公害が起きる」ということが証明されました。

 

本書最後には原田さんは「水俣病は終わっていない」と書いています。

本当にそうだということがわかります。

 

 全国ではどうか知りませんが、熊本ローカルのテレビ新聞では「水俣病という名称を変更しろ」という市民運動について最近も報じられています。

この本を見て驚きました。

実に1968年という早い段階、水俣病チッソの排出した水銀による中毒であるということが公式に認定され、同時にチッソばかりでなく日本全国でアセトアルデヒド工場が消えたというときに、「水俣市の支配層は、市長の音頭取りで水俣病の早期解決、チッソ水俣残留、地域振興、そして”水俣病の病名変更”をスローガンとする運動を起こした」とあります。

水俣病の被害者と言う人々と、水俣の市民とは決してイコールではないということがはっきりわかります。