古語といえば江戸時代以前の言葉といったような感覚かもしれませんが、江戸時代の人にとっては室町時代以前の言葉、室町時代の人にとっては鎌倉・平安時代の言葉が古語だと思われていたのでしょう。
そして大和奈良時代の言葉などは江戸時代から見ても遠く離れた時代のものだったのですが、それを解明しようと努力されました。
そういった古語というものに対しての様々な動きを江戸時代を中心に見ていきます。
柿本人麻呂の歌で、万葉集の巻一、48番目の歌に次のようなものがあります。
ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
しかし万葉集に収められている歌は次のような表記です。
東野炎立所見面反見而為者月西渡
これを上記のように読んだというのは、江戸時代も後半、18世紀になり賀茂真淵が確立した読み方からだったのです。
そもそも万葉集成立の頃に実際にどう読んだかということはほとんど分かりません。
そしてその後平安時代にすでに元の読み方が分からなくなっていたために、それを研究する人々が様々な方法を行っていたようです。
元暦元年(1184年)に書き写された元暦校本と呼ばれる資料に記された訓では、
あづまののけぶりのたてるところみてかへりみすればつきかたぶきぬ
とあったそうです。
この読み方の方が素直で字の意味も通りやすいのでその後もこれが基本となっていたのですが、江戸時代になって古学派と呼ばれる人々が様々な考察を行い、契沖から始まり荷田春満、そして賀茂真淵に至りああいった読み方が提唱され、それが世に広まることとなりました。
その弟子たちは真淵の説に異論を唱えることなどなく、それが通用したのですが、その後の古文学者たちにより大きく疑問点が示され、元の歌の読み方も混沌としてしまいました。
まず「ひむがし」という言葉は古代には歌に用いられることがほとんど無かったようです。
東野は「ひむかし」の「の」ではなく、文字通り「あづまの」といった地名だと考えられます。
他にも古学派の学者たちが提唱した古文の読み方で「野」を「ぬ」と読むといったことがあります。
これも様々な視点からの反論が明治以降に起き、限定的に解釈されるようになりました。
しかし江戸期においてこのような古学派の活躍は大きなもので、その後の式亭三馬の「浮世風呂」の中にも、江戸の市井の町人にまで古学が流行っていたことを示す記述があります。
浮世風呂を読むような一般人にまで古学というものが行き渡り、それについての床屋談義が行われていたようなのです。
さらにこういった古学の流行は、古い文書の発掘や保存という方向にも進みました。
塙保己一が群書類従という古代資料のまとめのような本を出版しましたが、それもこの動きの一つです。
幕府もこういった活動を後援したのは松平定信の影響も強かったのですが、資金援助をするとともに幕府の威光で進められたために神社仏閣、貴族・名家などにしまい込まれていた古文書が明るみに出される効果もあったようです。
その他、いろいろな古語にまつわる話もどんどんと出てきますが、最終章に取り上げられている話題が興味深いところです。
それは「作者自筆本がなぜ残っていないか」というものです。
有名な物語や随筆など、写本の古いものがあっても最初に作者が書いた本というものはありません。
唯一、藤原定家が紀貫之の土佐日記の自筆本が残っていたのを見つけ「奇跡だ」と書き残したそうです。(現在はそれは残っていない)
実は、著者の自筆本というものは、「どれが最初に成立したものか」が著者自身にも不明であるため、最初の完成本の自筆本というものは残るはずもないということです。
何となく出来上がった本が周囲の人たちにより写されていく過程で確立していくもののようです。
