爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「古典再入門 『土左日記』を入りぐちにして」小松英雄著

紀貫之が書いた「土佐日記」は教科書にも紹介されていることで多くの人が知ってはいることでしょう。

しかしその内容の理解には間違ったところが多いということです。

そこには解析してきた専門家たちの誤りも多いということです。

 

それを詳細な検討を加えて見直してみたということで、「再」入門という題をつけました。

 

通常は「土佐日記」と表記されるのですが、古い写本では「土左日記」と表記されています。

原本は古くから失われていたのですが、藤原定家が探し出しそれを写したものをさらに写した本が今に伝わっています。

土佐の国の国守であった貫之が京へ帰る時のことを記したからとして「土佐日記」と解釈してその字を使うのが普通になってしまいましたが、そうではないという主張です。

 

教科書にも載っている土佐日記前文には

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

と書かれています。

これを普通は次のように解釈しています。

男性も書いているとかいう日記というものを女(である私も)書いてみようと思って書く。

このように貫之は女性に仮託してこれを書いたというのが定説になっています。

 

しかしこの文章は貫之とは思えないほどのおかしな文であり、状況も文法も異例だらけになるということです。

 

その説明が続きますが、あえてひとまとめにしていうと、

「おこともすなる」は「おとこもし」(男文字)を意識して使われた「掛け言葉」というべきものであり、「おんなもしてみむ」は当然「おんなもし」(女文字)だということです。

 

さらに紀貫之の時代というものも考慮しなければならず、平安時代でも早い時期にはまだ仮名の表記自体が確立しつつあったことも問題です。

ましてその少し後になると字体や筆跡(手)というものが重要になるのですが、そこまではまだ進んでいなかったということです。

 

その他の部分でも通説に対して厳しい批判を繰り広げています。

まあ学者同士の論戦ははたで見ていると面白い。