和歌(短歌)という文学は遠く万葉の時代に生まれ1000年以上も続き、現代でも多くの人が作り続けています。
そのような和歌の歴史を、その重要な人物を取り上げながらまとめてしまおうという、非常に大それた?本です。
登場人物としては、
そして平安に入ってからは、在原業平、紀貫之、紫式部、和泉式部など、
といった面々です。
古い時代の人たちは聞いたことはありますが、室町以降では細川幽斎以外は知りませんでした。(もちろん、それも和歌以外の話です)
山上憶良は出自も明らかではなく帰化人かとも言われていますが、和歌の形成時に大きな貢献をしました。
高齢になってから筑前守となり赴任したのですが、その際に太宰帥として着任したのが大伴旅人で、彼らと天平2年正月13日に大宰府の旅人の邸宅で催されたのが有名な梅花の宴でした。
この際の顛末と歌が万葉集に収められ、それが令和という元号の由来ともなりました。
紀貫之の項ではその歌だけでなく彼を中心としてまとめられた古今集というものの重要性についても触れられています。
奈良時代までの和歌の隆盛から、平安時代に入ってやや低調となってしまいました。
それを反転させて次代を和歌が動かす時代かのようにしたのはその功績とも言えます。
もちろん紀貫之だけの功績のはずもなく、紀友則、凡河内躬恒、そして同時代の歌人の伊勢、清原深養父、さらに先輩格の素性法師、藤原敏行、そしてそれらを後押しした宇多・醍醐天皇たちの力だったということです。
源氏物語は宮中の恋模様を描いた物語ですが、その中に多数の和歌が収められているという面を忘れてはいけません。
全体として795首の和歌が収められ、その作者も紫式部であろうと考えられます。
そして、源氏物語の大流行はそれらの和歌も読者に大きな影響を与えることとなりました。
それらには数々の特徴があるのですが、それらもまた当時の宮中での歌作に影響を与えることとなりました。
細川幽斎(藤孝)は戦国時代の武将ですが、和歌を始め多くの文化面で優れた才能を持つ人だったようです。
三条西実隆に伝わる古今伝授(古今集の解釈)が、その跡取りが幼かったために細川幽斎に伝えられたと言われています。
肥後細川藩初代の細川忠興の父親ですが、肥後に入る前に細川幽斎は亡くなりました。
和歌というものが長い歴史を光を失わずに続いている、その一端が見えるような気が少しします。