爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

製造物の廃棄処理まで考えないで生産して「持続可能」などと言うことはあり得ない。

太陽光発電装置の設置が環境破壊を引き起こす例が頻発し、今後の状況が不安視されます。

しかしその設置による環境破壊などを上回るのがいずれやってくる寿命終了後の廃棄処分であり、大量の有害廃棄物が環境に投棄される危険性も高いものと思います。

 

しかし、考えて見れば現在の工業製品で「廃棄処分を十分に考慮した」ものなどどこにあるのでしょうか。

自動車から電気製品、その他もろもろのすべての製品はそのような考慮など全く無いままに作られ、売られ、使われて捨てられます。

使用者がポイ捨てをするといった批判もありますが、そもそも捨てるように作られているものであり、最大の責任は製造者にあります。

作って売るだけは好きなようにやって儲けて、後の処理は自治体任せというのがほぼすべての工業製品です。

 

このようなやり方をしている限り、「持続可能」などと言うことはありません。

資源が次から次と商品に代わり、それが使われて捨てられてゴミになる。

そのゴミの処理が完結していてこそ真の持続可能であるはずです。

あの形だけという中でも最たるものが「SDGs」ですが、少なくとも持続ということを考えるのであれば、何らかの製品作成の作業があればその廃棄ということは付き物であり、それを循環使用することなしに「持続」することは不可能です。

ただしその製品に関わる全ての物をリサイクルしたとしてもエネルギーは一方的に使われるので完全な持続は不可能です。

そのエネルギーを最少とするようなデザインが不可欠です。

 

とはいえ、そのような循環社会といったものはほとんど実現性がないとも言えます。

製品を設計段階から再生利用可能とするように企画し、何年後かに回収してもそれをそのまま次の製品に利用できるようにしておくことが必要ですが、あまりにも難しいことはすぐに分かります。

製造から流通販売工程でも何一つ捨てないで再利用などと言うことは困難でしょう。

売ったものが消費者で使い終わったら回収というのも難しい。

かえって「販売」ではなく「使用権付与」でなければ戻すことも難しいでしょう。

そもそもこの工業化社会というものはそういった具合にはできていない。

それこそが現代社会が持続不可能であることを表しています。

 

そのような循環利用を内包した製品など現在の使い捨て社会ではコスト的に全く太刀打ちできず勝ち目はありません。

そのようなことを全く考えずに使い終わったらその辺に放り出すといったコストカットに敵うはずもありません。

 

とはいえ、完全な循環は不可能としてもできる限りのことをする必要があります。

少なくとも危険物、有害物は野放しで投棄させることは絶対に禁止すべきでしょう。

大型ゴミとなるような製品も製造者の責任をもっと強く負わせることが必要です。

可燃性ゴミや小型のものは自治体の処理を使った方が効果的ですが、それには相応の負担を製造者に持たせる体制が必要です。

製造量に応じた廃棄物処理の費用負担は当然でしょう。

 

それが本当の「地球環境を守る」ということです。

見せかけの方法で「二酸化炭素排出を減らす」などと言う言葉だけの方策をやっていれば「環境を守る企業」のフリができるような状態ではすぐに大きな環境破壊を目にすることになるでしょう。