このところ8月15日になると一応戦争というものに対する意識などについて書いていますので今年もやってみましょう。
8月15日を何と呼ぶか。
実はこの日に連合国側に敗戦を伝えたとか、降伏文書に調印したということはなく、あくまでも国民向けに天皇の玉音放送を行ったということで、アメリカなど相手国側では特にこれを終戦の日とすることはないようです。
ポツダム宣言を受諾するというラジオ放送を行ったのが8月10日、例の降伏文書調印が9月3日です。
また「終戦の日」という呼び方は事実をぼかしており、敗戦の日と言うべきという意見もありますが、これは戦争までの国の政体と現在の自分たちの立場との関係性をどう意識するかによっても変わりそうです。
戦前の政体と同一性を強く意識する人々(右翼?)であればあの時点では一時的に「敗戦」しており、それを克服して再び独立しアメリカを追い払うという強い意志とともに、その日を忘れないという意味で「敗戦の日」と呼ぶことに意味はありそうです。
いわば捲土重来を期すという意味での決心を強めるということでしょうか。
そうでもなければあまり「敗戦」ということにこだわる必要も無いのかもしれません。
戦争責任すら国民とは関係ないという人たちにとっては、「終戦の日」といううすぼんやりした事実認識がぴったりなのでしょう。
さて、例年になく戦争というものについて強く意識せざるを得ない状況となったこの日です。
言うまでもなく、ロシアによるウクライナ侵攻、そして中国が周囲への進出意欲を露わにしてきたことです。
言うまでもなく、侵略に対して自衛をすることも戦争です。
ウクライナでは防衛戦争で多くの人々が死んでいます。
「戦争はいけない」と言いながら、自衛戦争はやるべきというのは実際には相反しています。
本当は絶対に戦争はしてはいけないというのであれば、戦争になりかねない状態になった場合は総力を挙げてその阻止をするための外交交渉をすべきでしょう。
ウクライナ侵攻を前にしてロシアがウクライナのNATO加盟を絶対に阻止したいという希望を述べたのに対しNATO側は全く取り合わなかったということは知られています。
ロシアばかりが戦争を仕掛けたとは言えません。
中国の進出も確かに迷惑な話ですが、「力による状況の変更」はダメと言いながら「交渉による変更」は認めているでしょうか。
とにかく「これまでの国際秩序は何があろうとも絶対に変えさせない」というのでは話になりません。
そもそも現在の国際関係は第二次世界大戦でほぼ確定し、その後共産圏が拡張したものの自滅したということで出来上がったものであり、やはり戦争によって作られた国際秩序です。
それの変更を求めるには戦争しかないのでしょうか。
その戦争もダメならいかなる変更もできないのでしょうか。
ロシアはクリミアに続いてウクライナの東部の州を「住民投票」で独立させようと画策しています。
「住民投票」によれば何でもできるのかどうか。
それも問題ですが、世界中の国で「国からの独立」はほぼ封じられています。
わずかにイギリスからの独立を目指したスコットランドの住民投票は実施されましたが成立しませんでした。
しかし他のほとんどの国では分離独立運動は厳しく制限され、死刑を持って禁止されている国もあります。
こういった「状況変更」も戦争以外で通す方法があるのでしょうか。
まあ何のまとまりも無いボヤキのような文章になってしまいましたが、仕方ないでしょう。
しかし多くの戦争犠牲者たちのために祈りを捧げる際に「過ちは決して繰り返しません」などと言う寝ぼけたセリフを言うようなことなく、きちんと考えるということをしていきたいものです。