爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「蒙古襲来と神風」服部英雄著

鎌倉時代にモンゴルが攻めてきた二回の元寇では嵐に襲われて元の艦隊は全滅したと言われ、その嵐を「神風」だったとされたのが太平洋戦争での神風特攻隊にまでつながることになっています。

しかし実際にそのような状況があったのかどうか。

中世史が専門の著者服部さんから見ればとてもそのようなことは事実とは言えないということです。

 

以前のような通説をまとめて定説としたのが戦前の東京帝国大学教授であった池内宏でした。

そこで「一夜にして元艦隊は絶滅」といった説が一般化されていきます。

実際によく読めばそんなことは無いということはすぐに分かりそうなものですが、東大教授の説ということで皆逆らうことも無く引用、孫引きを繰り返し定説化してしまいました。

 

元寇に関する記録は日本側だけでなく朝鮮、中国にも残っています。

そういった記録を集めて比較してみると、あちこちに誤解や書き誤りといったものもあるのですが、それらを整理していくと大体の概要は見えてきます。

たとえば釜山を出て対馬を襲うまでに何日もかかるかのように書かれている史料もありますが、これは早朝釜山を出港して対馬をその日のうちに襲撃するのが事実であり、実は「そのような潮回りの時を選んで出撃した」というのが真実に近いそうです。

 

また情報に混乱もありますが、志賀島を元軍が占拠して要塞化したのは事実のようです。

それを取り返すために竹崎季長らが潜入し闘ったという場面も例の蒙古襲来絵詞に描かれています。

 

第二回の元寇弘安の役の際には長崎県松浦市鷹島周辺にいた元軍の軍船が多数沈没しそれで元軍は引き上げたと言われています。

沈没船も見つかっているためそれに間違いはないと考えれがちですが、実はここに来たのは中国南部からやってきた部隊だけでそれも博多沖への合流の期日をはるかに遅れての到着だったようです。

すでにそれ以前に朝鮮半島から来襲した軍は博多沖に到着しており志賀島を占領し大宰府を攻めようという姿勢でしたが、博多湾岸に陣取った日本軍の防御に止められていました。

そこにもその嵐は襲ったのですが、これで被害を受けたのは元軍だけでなく日本側の艦船も多くが沈没しました。

その後の戦いには日本側も船の不足に苦労したようです。

とても日本側が「神風」などと言って歓迎したとは思えない状況でした。

ただしその報を受けた京都などの貴族や寺社の連中は、自分たちの祈祷が功を奏したと思い込み、神風だと言い張ったそうです。

 

竹崎季長蒙古襲来絵詞も有名なものですが、そこにも知られていない事実が多くあるようです。

竹崎季長の領地としては熊本県南部の海東というところにありますが、そこを鎌倉への直訴によって得たと言われています。

しかし実際にはそのような事例は他にはなく、この場合も恩賞として幕府から与えられたのではないようです。

季長は熊本でも北部の玉名の竹崎を最初の領地としていたのですが、どうやら出自は長門の国ということです。

そのため持つ兵力もほとんど無く、元寇の際にも親族とわずかな手勢で参加したのみでした。

弓矢の腕はなかなかのものだったようで、それで何人かの元軍の将兵を倒したようですが、その程度では恩賞などはほど遠く何もなかったようです。

それであの絵詞を作ったのですが、それには多額の費用がかかります。

それができるほどの財力はあったのですが、それを持って鎌倉に上りました。

幕府には相手にされず安達氏を頼りますが、安達氏側もこれは利用価値があると思ったのか、自領の中から海東の地頭職を与えたそうです。

しかしその安達氏はその後すぐに幕府により謀反の疑いを掛けられつぶされました。

季長は地元に戻っていたために巻き込まれなかったそうです。

 

竹崎季長といえば熊本地元の歴史的人物ですので興味はありますが、なかなか面白い事実だったようです。