実は現在、かなり古い本で江上波夫氏の騎馬民族王朝説について歴史学界でシンポジウムを行ったという記録を読んでいるのですが、(なかなか読み終わりませんが終わったら読了読書記録は書くつもりです)そこでおそらく歴史学界の主流派とおぼしき人々が主張しているのが、近畿地方で起こった文化を持った人々が周囲を統一して大和朝廷となったという、内生説とでも言うような立場のようです。
これは現在までも同様のようで、邪馬台国の存在についてもやはり近畿説、一時主張された九州王朝説に対しても学界主流派は近畿の発展的統一という学説以外は考慮の価値を認めようとはしない態度に終始するようです。
しかし、それで良いのだろうかと感じていました。
近畿で生まれた文化を発展させていったとしてもそれを担った人たちはどこから来たのか。
まさか、原人からそこで進化を重ねなどという話があるはずもありません。
そんなわけで、これまで色々と読書をして出来上がってきた「日本古代の歴史」についての認識を、この辺で一度まとめておきたいと思います。
まず、「現生人類の出現と出アフリカ、そして日本への到達」について。
現生人類・ホモサピエンスはおよそ20万年前に東アフリカで出現したというのは間違いのないところでしょう。
その後、6万5千年から6万年前くらいの時期に数度にわたってアフリカを出ました。
しかしその後すぐに世界に広がっていったわけではなく、2万年ほどは中近東に止まっていたようです。
それが4万年くらい前になって急激に世界中に広がりだした。
アジアに進出し中国付近に達したのは3万5千年ほど前、そして日本列島に渡ったのは3万年前からと考えられています。
なお、新人類以前の旧人・原人・猿人は日本列島には渡ったという足跡は見つかっていません。
すでに海で隔てられた列島には旧人以前の人々は渡る術が無かったのでしょう。
最初に列島に渡ってきた人々を「縄文人」と言われていましたが、どうやらそのように一括りにはできず、かなり多様な人々であったようです。
しかも一時ではなく繰り返し何度も渡ってきました。
そう言った人々がそれから2万年以上列島に暮らし、やがて縄文文化というものを作り上げました。
「稲作を持ってきた弥生人」
水田を作り稲作を始めたのが弥生時代であるということは異論がないところでしょう。
ただしその時期がいつからかということは諸説あるようです。
しかし早い説でもせいぜい紀元前5世紀といったところでしょうか。
そして、それをもたらしたのが弥生人と言われる人々ですが、それも朝鮮半島からか中国大陸から直接かといった異論はあるようです。
さらに、この弥生人が稲作の伝播と共に広く日本中に広がっていきました。
この人々は朝鮮半島からやってきたとしても、その地域はすでに中国文明の影響を強く受けていました。
中国はすでに周の時代から春秋戦国の乱世へ向かい、東アジアにも手を伸ばし始めています。
さらに戦国の乱世で敗れた人々が国外へ逃れるといったこともあったでしょう。
朝鮮半島にはすでにその影響がかなり強くあったはずです。
その中で、日本に渡ってきた人々がただの農耕民のはずはありません。
すでに国家や文明というものは知っていたでしょうし、それを体現し使いこなしていたのかもしれません。
そして、彼らが渡ってきた先も北九州であることも間違いないでしょう。
いくら頑張っても、近畿地方にまず渡ってきたとは言うことはできません。
日本にやってきた初期からある程度の組織を作り広がっていったのではないか。
その最初が北九州であり徐々に中国地方から近畿地方へと広がったのは間違いないことでしょう。
その伝説があの古事記や日本書紀に残る神武東征なのではないでしょうか。
「邪馬台国など」
いまだに邪馬台国が近畿か九州か、はたまたそれ以外のところかということで論争する人も居るようです。
しかし、上述したように北九州にまず国家組織というものが生まれ、それが徐々に広がっていったという道筋は間違いのないことでしょうから、その中のある一つの時点である邪馬台国の時についてそれだけを取り上げその位置を議論しても大して益のあることとも思えません。
単に重点の存在する位置が列島の西から中央へ移動したのがいつなのかということだけの問題でしかないように感じます。
それがたまたま中国の歴史書に残っているからというだけで、その存在だけが重要視されるというのもあほらしい話です。
邪馬台国がたとえどこにあっても、その時期には別の地域にもかなり大きな政治集団が存在していたはずですし、それらが対抗していた時代かもしれません。
その中の一勢力が中国に使いを送ったということなら、やはり中国に近い九州かとも思いますが。
「興味のある対象」
そんなわけで、どうも現在の専門の歴史学者や考古学者たちが扱っている対象とはかなりずれるのでしょうが、私の興味をひくのは「どのように九州から近畿へ稲作文化が広がっていったか」ということです。
それはほとんど考古学的に研究対象となるような遺物が残るものではなく、単に水田遺構ならばその後の耕地開発でほぼ痕跡は消されているでしょうから、今後も見つかる可能性はあまり無いのかもしれません。
このように、私はかなり変わった方なのか、考古学や歴史学の通常の対象となるようなものにはあまり興味をひかれないようです。
ただし、考古学というものは一つの大発見ですべて引っくり返るということもあるようですので、それは楽しみですが。