爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「旧約聖書の謎 隠されたメッセージ」長谷川修一著

長谷川さんの前著「聖書考古学」は読みましたが、この本はその姉妹編にあたるということです。

前著でも旧約聖書の有名な話、出エジプトやエリコの城壁などは考古学的には何の証拠も残っていないということが語られていましたが、この本ではそういった話に留まらず、「聖書でなぜこういう記述がされたのか」というところも考察されています。

 

聖書が歴史そのものであったということを信じる人は、よほどのキリスト教徒以外にはもうあまり残っていないと思いますが、それでも何らかの歴史的事実が反映されているのではということは考えられるのですが、そこにも詳しくメスを入れています。

 

旧約聖書の記述が歴史的事実であるという信仰は、歴史学の中心が西欧のキリスト教社会であったために長く影響を残してきました。

さすがに「天地創造」や「エデンの園」が歴史であるとは誰も思っていないでしょうが、「出エジプト」はまだかなり信じている人もいそうです。

高校の世界史の教科書にもこれが記載されているということですが、その記述が真実では無かったとしたら、かつてのユダヤ人はなぜそのようなことを書いたのでしょうか。

 

ノアの洪水は、各地に残る洪水伝説から想像されたのではというのが科学的解釈となっています。

しかしパレスチナの地はほとんど雨も降らないようなところで、そこで洪水という想像ができるはずはありません。

洪水説話が残るのは、メソポタミアの地が多かったようです。

もっとも古いシュメル語の洪水伝説、ギルガメシュ叙事詩、そしてあまり知られていませんが、アトゥラ・ハシースと呼ばれる粘土板に残る物語にありました。

どうやら、紀元前6世紀に新バビロニア王国ユダヤ人の王国が滅ぼされ、バビロニアに捕囚された時期か、その前後の平和的にメソポタミアの諸王朝にユダヤ人が入っていきその時に洪水伝説を聞いて取り入れたのかもしれません。

ただし、メソポタミアの諸伝説は多神教によるものでしたので、一神教ユダヤが取り入れる時にはその部分を変更したようです。

 

出エジプトについては、そもそもユダヤ人がエジプトに入ったのはいつか、出ようとしたのはいつか、その時のエジプトのファラオは誰か、出エジプト後の彼らの足取りは、シナイ山はどこか等々、不明な点ばかりです。

これらを明確に説明できる証拠は全く無く、それを何とか辻褄を合わせようと聖書学者たちは様々な解釈を加えてきました。

しかしどれも証明にはほど遠く、これらの事件は実際には無かったものと見られます。

しかし、どうも紀元前8世紀以降の時代のユダヤ人は、その頃にはすでに遠い過去の話であった出エジプトというものが存在したと信じていたようです。

今のように昔のエジプトなどの事情もよく分かっていなかったでしょうから意外に本当のことと信じていたのかもしれません。

それが必要だった事情とは何か。

この部分の聖書の記述は「ユダヤ人が神と契約している民族であること」「神はこの民族を救ったこと」を主張しています。

ユダヤ人たちが非常に苦しい状況に立たされていた時代に、こういった事実があったということを民族の希望として信じようとしたのかもしれません。

 

エリコの町を攻め滅ぼしたのはモーセの後継者のヨシュアが率いる軍勢で、エリコを包囲し7日間の戦いののちに角笛を鳴らすとその音で城壁が崩れたという話は有名です。

エリコという町は現在でも存在するために、かつての聖書学者や考古学者たちはこの崩れた城壁の遺跡が無いかと必死で探しました。

しかし、北シリアのウガリットという遺跡を発掘していくと、この物語とよく似た話が書かれてた粘土板が見つかりました。

ケレトという王の伝説ですが、ウドムと言う町を攻めてやはり7日間かかり、その間動物のうなり声で町の王が眠れなかったというものです。

さらに、ヨシュアの戦いをつづった聖書のヨシュア記の他の町を攻めた記述は、アッシリアの王朝の遺跡の碑文に見られるものとそっくりであるものが多いということも分かってきました。

どうやら、ヨシュア記の征服物語というものは、歴史を正確に記そうという目的で残されたものではなく、アッシリアの碑文を真似て周辺諸国を征服したということを強調したくて作り出されたもののようです。

 

どうやら、聖書の記述と言うものはそれが成立した当時のユダヤ人たちの状況をよく表しているもののようです。