史料と言っても、ここで取り上げているのは政治家や軍人、官僚などの個人の日記や書簡といったものです。
期間は明治時代から昭和まで、大久保利通から楠田實(佐藤栄作秘書官)までの範囲です。
明治期から現代まで見ても、多くの人々が日記を書いており、上記の他にも木戸孝允、植木枝盛、原敬、後藤新平、重光葵、岡田啓介、高松宮、芦田均、鳩山一郎、佐藤栄作と、有名人のものが次々と取り上げられています。
ただし、そのような書いた人の重要度と日記のそれとは必ずしも一致しないようで、かえって秘書官や侍従の日記の方が興味深いということもあるようです。
植木枝盛は明治時代の民権運動活動家で、国会開設の建白書を出すなど盛んな活動をしてきた人です。
その日記は少年時代に始めて高知を発った日から死の直前までの20年間、ほぼ毎日書かれていました。
立志社という政治団体に加入したのですが、その状況についても細かく書かれ、当時の実像に触れることができるものです。
なお、この日記にはそのような政治や演説の活動についてだけでなく、遊郭や地方旅館での性交渉についても頻繁に書かれており、その記述は11年間に200回を越え、相手の100人以上ということです。
原敬日記、浜口雄幸日記などはすでに活字化され出版されており利用しやすいのですが、それ以外の人の日記などはまだ研究途上のものもあります。
その中でも、倉富雄三郎日記というものが重要なことは認識されながら、なかなか取り掛かることができなかったものでした。
明治後期から昭和にかけて司法官僚や枢密顧問官であった倉富は長期間にわたって丹念に日記を書いていました。
日々の出来事をすべて書いたのではないかと思わせるそれは、手帳や大学ノートの全304冊もあり、これに挑戦しようという研究者をひるませてきました。
しかも「細かなハエ」「ミミズ文字」などと酷評される筆跡は解読も難しかったようです。
しかし徐々にその解読が進められることで、大正末期から昭和にかけての時代の宮中と政治の関係も明らかになってきたようです。
外交官であった寺崎英成は、敗戦後に宮内省御用掛となり、通訳兼アドバイザーとなってマッカーサーと天皇の会見にも同席しました。
その関係で、当時昭和天皇の語る言葉を書き留めました。
しかしその記録は日本語を解さないアメリカ生まれの夫人と娘のもとに残されたために知られることが長くなかったそうです。
その孫によって発表されたのはようやく1990年になってのことで、昭和天皇の肉声を記したものとして大きな反響を呼びました。
この「昭和天皇独白録」には昭和天皇が「立憲君主」的な姿と「専制君主」的な姿を並んで見せているようです。
ただし、これが完全な真実というわけでもなく、やはり他の資料と見比べながら見ていく必要があるようです。
私も高校生の頃から結婚前までの10年余り日記を書いていました。
まさかそんなものを読もうという人も居ないでしょうが、ひどい悪筆ですので、解読は困難でしょう。
日記というものが貴重な場合も多いもののようです。