幕末から明治にかけての戊辰戦争で、会津藩は行きがかりから東北諸藩の盟主とされ、官軍に対する賊軍として討伐されました。
そのためか、その後も何かと差別を受け開発も遅れたということです。
しかし、会津藩士の中でも明治政府に出仕し、西南戦争時に九州に派遣され阿蘇で戦死、後の靖国神社に祀られた佐川官兵衛という人が居たそうです。
著者は官兵衛の記憶が失われる経緯を元に、近代の会津というものの捉え方の変化を論じています。
佐川官兵衛は、会津藩では家老の職にあり、京都で長州と対峙していた頃から戦いを指揮してきました。
戊辰戦争の最後には降伏のあと謹慎生活を送ったのですが、明治7年になって東京警視庁に出仕し、西南戦争勃発の時には九州に派遣され、阿蘇の一揆の鎮圧に当たる際に戦死しました。
現在は会津の地には「佐川官兵衛顕彰碑」という立派な石碑が立っているものの、かつて会津の郷土史家である相田泰三氏が官兵衛戦死の地の阿蘇を訪れた当時は、会津の地においてはほとんど忘れられており、阿蘇の戦死の地に記念の木標が朽ち果てる寸前だったそうです。
ただし、西南戦争の政府軍に属していたために靖国神社には祀られることとなりました。
その後、相田氏の紹介により会津に知られるようになった官兵衛は、ちょうど当時は大戦後でそれまでの賊軍観が完全に消し去られ、白虎隊などを取り上げる「観光史観」とでもいうものが大流行していたために、官兵衛顕彰碑という大きな記念碑が建てられるなど、会津ではよく知られることとなったそうです。
靖国神社は戊辰戦争以降の官軍、政府軍の兵士で戦死したものを祀るとされてきましたが、実は会津藩は最初は京都で天皇を守り戦ったのです。
その時は長州藩が天皇に対して戦いを仕掛けていたのですから、この時点では官軍賊軍が逆であり、この戦いで戦死した会津藩士は官軍側のはずですが、その辺は長州藩の都合だけで決められていましたので、靖国神社では「会津」はすべて無視されていました。
その後、徐々に賊軍視も薄れてきたのですが、昭和初年になり天皇の弟の秩父宮雍仁と松平節子の結婚が決まったことで、会津賊軍観は解消されました。
これで朝敵の汚名は克服されました。
しかし、この直後とも言うべき時期に日本全体が敗戦ということになってしまいます。
ただし、戊辰戦争時の記憶に関しては、これで完全に賊軍観からの脱却となったのでした。
それまではやはり公平には扱われなかった歴史上の事件が、会津藩側に立っての記述も何も問題なくできるようになりました。
そして、それは「観光史学」とでも言うべき状況となり、会津城や白虎隊自決の飯盛山の観光名所化として現れます。
1987年には、山口県萩市からの姉妹都市提携の提案に対し、会津側が反対して立ち消えとなったという問題も起こります。
これも誰が指導して断りの雰囲気を作ったか、よくわからないこともあるようです。
ちょうど現在、明治維新150年ということでこれを大々的に祝おうという山口県側と冷ややかに見る東北といったニュースが流れたことがあります。
いまだにこの問題は現実のものなのかもしれません。
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