爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

社会随想、読解力などについてその2

(これまで、このブログでは書評やまとまった考察記事は朝6時公開、ニュースネタなどはそれ以外に13時等に公開としてきましたが、年末は今朝の「今年の出来事」などというものが入るため、通常記事が入る空きが無くなってしまいます。

この記事も通常ならば定時の6時公開レベルなんですが、仕方なく?13時公開です)

 

 

その1の最後の所、2.英語教育と国語の読解力についてと題したものの、英語教育の少しだけ取り上げただけでしたので、さらに続けます。

 

2.英語教育と国語の読解力について(続)

国語には限りませんが、「読解力」と特に銘打って取り上げる場合は「母語」についてのものがほとんどでしょう。

第二言語以降については当然ながら母語よりも読解力は落ちるでしょうから、母語の読解力を100とすれば、第2以降は50とか30とかいった数字になるのでしょう。

 

その母語読解力が100ではなく80,50と下がっていけば、第二言語もそれに比例して低下するでしょう。

そして、問題なのは言語能力だけでなく読解力不足が他の能力にも大きな悪影響をもたらすことになるということです。

学校だけに限ってみても、数学や理科系学科でも「問題の意味が分からない」というのが大きな問題となってきており、数学的なポイントは分かっていても問題の意味が読み取れずに解答できないということが起こりうるという状況です。

 

しかし、そのような「数学の問題の読解」というのは同じ「読解力」という範疇で見たとしてもかなり初歩的なものであると言えるでしょう。

まあ、それすらできないレベルの子供が多いということですが。

本当の意味での「高度な読解力」が必要な状況とはなんでしょうか。

 

私のイメージでは、これまでの読書歴で意味が取りにくかった哲学書、そして一部の小説といったところでしょうか。

SF小説でも意味の取りにくい場合がありますが、これはそれに描かれている状況自体が分かりにくいという例が多いと思いますので、ここでは略します。

 

哲学書が分かりにくいというのは、わざと分かりにくく書いているという疑惑はさておき、やはり述語の高度な意味付けという問題もあるでしょう。

微妙な意味の差を述語の使い方で分けて考えるという、まあそれが哲学だと言われればそうなんでしょうが、あまり普通の人間には縁のない文章なのかも知れません。

なお、これは日本語に限らず英語でもドイツ語でも同じようなものではないかと想像できます。

 

小説、特に現代小説で読解力が必要というのは、用いられる言葉が難しいというのではなく、そこで描かれている状況や人間関係が複雑で微妙で、さらにそれを作者が曖昧に書くということも影響しているのではないかと思います。

 

これのよくある質問として「その時、メロスはどう思ったでしょう」なんていう問題文があり、それに対して4つくらい選択肢を示せば選択式、50文字以内で書けとなると記述式問題になります。

しかし、その読み方は問題製作者の独断であり、正解とされたものが著者の意図とまったく違っていると言った話もよくあるようです。

 

このような「読解力」を付けるにはどうしたらよいか。

本を読むというのも間違いないでしょうが、恋愛小説であれば実際に恋愛をしてみなければ分からないところもあるでしょうし、それも三角関係とか不倫関係であればもっと複雑な心理が分かるようになるかも知れません。

まあ、おすすめできる話ではないですが。

 

3.グロービッシュ(世界共通語としての英語)は解決策となるか。

ネイティブスピーカーの英語に近づけることというのが、英語教育の目的であるかのように考えている人がまだ多数だと思いますが、それは無駄な努力に終わる可能性が高いものです。

英語が世界共通語のように感じられるかもしれませんが、実は母語として英語を用いる人の数というものは世界全体から見れば少数にすぎません。

ほとんどの人は母語に続く外国語(第一外国語)として英語を学んでいるのみで、その水準はどうしてもネイティブイングリッシュとは隔絶します。

 

しかし、ほとんどの人がその少し単純な英語で意思疎通を図るとなると、そちらの方が主であるべきかも知れません。

その動きが「グロービッシュ」(globish)を推進するというもので、簡略化した英語で世界的な意思疎通を行い、英語のネイティブスピーカーにも国際会議などではグロービッシュ水準の英語を使わせるというものです。

 

これは、英語を使って国際的に意思疎通を図る手段としては正当なものと考えられます。

科学技術などや、ビジネス、国際政治など多くの分野でそれを用いればかなりの状況改善につながるでしょう。

 

ただし、それでは対応できない分野も多いと思います。

特に、グロービッシュで恋が語れるかという点は大きな疑問です。

それは、グロービッシュで小説が書けるか(特に恋愛小説)ということにもつながります。

書いたとしても、小学生の恋愛かというようなものになってしまいそうです。

恋愛はどうしてもそれに対して自己能力を全力で使ったものとなりますので、言葉を使う場合でも最良のものを使おうとするでしょう。

そこに、最低限の述語しかない英語を使う気にはなれないでしょう。

母語が同一の相手であれば当然そっちを使うでしょうし、それ以外の相手であれば言葉を使うのはあきらめて行動に移すしかなくなるでしょう。

 

ほとんど海外にも出たことのない私ですが、英語教育ばかりになっているというシンガポールの恋愛事情はどうなっているのか、心配です。

 

さらに続く。