よんばばさんのところで「読解力」に言及されていたので、最近色々と考えさせられることもあり、何かと思いつくままに書いていきましょう。
まあ発端は例のOECD関連の国際的な学力判定での日本の読解力凋落というところですが、他にも国民の能力分布や英語教育、および小説と私の読書傾向まで多岐にわたり、ということはまとまりもないということになるでしょう。
それで良いやと思って始めます。
1.国民の能力分布について
先の国際学力判定ですが、その読解力1位を取ったのが「北京・上海・浙江・江蘇」で、日本は15位ということでした。
ちなみに2位以下はシンガポール、マカオ、香港、どこも大きな国ではなく都市国家のようなところです。
上記資料中の日本の対象者については、無作為抽出した全国の183校の約6100人だそうです。
ここで、「全然公平な比較じゃないじゃん」と思うのが普通です。
まあ、それはこの際置いておくとして。
よく知られているように、どのような能力でもそれを広い範囲で集計しある点数をつけてその分布を見ると釣鐘状の正規分布に近いようなものになります。
実際はこのようなきれいな分布をすることはありえないと思うのですが、こうなっていることを仮定して標準偏差やら偏差値とかを出していることになります。
「国民の読解力」がこのような点数付けにきれいに対応しているかどうかは分かりません(問題の作り方に影響される)が、一応そうなっているものと考えます。
その場合、「国民の読解力」曲線が試験の回数を重ねるごとに左側に移動していった場合に「読解力が落ちている」ということになります。
しかし、実際にはトップクラスの一握りや、下位底辺クラスというところはどちらの場合でも大して変わってはいないでしょう。
それは中位の大多数庶民クラスでも同様ですが、それを大きな集団として捉えて統計処理をすることで平均値が算出され、それで集団の変化も見えることになります。
知ったかぶりはこの辺にして。
まあいろんな感想があるところですが、「底辺クラスの読解力」とはどの程度のものかということも想像するに恐ろしいものがあります。
おそらく「一時停止標識のところでは自動車を停止させ左右を確認する」とか、「歩道では歩行者の通行が優先なので自動車や自転車がその通行を妨害してはならない」なんていう文章も読解できないんだろうな。
ただし、「社会上層クラスの読解力」も危ういものかも知れません。
この国の最上級の知性が集まっているはずの上級官僚で、法律条文の読解力が極めて危ういものになっているようです。
いや、それは穴と裏だけ読むような訓練がされてしまっただけか。
2.英語教育と国語の読解力
「英語の読解力」なんていうものは考えませんでした。
英語文章を読解する力というものを必要とするような、文法中心の英語教育は求められない(受動態と可能)ことになっているようです。
「スマホ会話」程度のものしか、英語教育には求められなくなり、それだけでは済まなくなって「国語教育もスマホ会話」になってしまいました。
そんなところで読解力向上なんてできるわけがないでしょう。
小学校での英語授業必修化というものは、確実に他の教科の時間数減少をもたらすでしょうし、それで他教科の学力低下も引き起こすでしょう。
ただし、「昔は読解力向上のための教育がされていた」でしょうか。
私が小学生であった半世紀以上も前の時代でも、読書は奨励はされていたものの、授業中に読書をすることなど無かったし、感想文も夏休みの宿題程度でした。
そのため、子供によって読書量などは大差があったのでしょう。
(なお、私は他の子供の数倍の読書量はありました)
何のまとまりもありませんが、さらに思いついたら続けます。