爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「『責任』はだれにあるのか」小浜逸郎著

責任という言葉は何かあるたびに飛び交います。

しかし、その実態が何かということはあまり考えられていないようにも感じます。

任命責任は私にある」と言い続けながら何も行動を取らない人もいますし。

 

そのような責任というものについて、評論家の小浜さんが色々な側面から書いていますが、第1部の責任はだれにあるのかという所では具体的な例も数々あげられて分かりやすいと感じたのですが、第2部の責任の原理を探るというところに行くと哲学的な考察が続いて非常に難しく感じました。

第2部については私もあまり理解できない部分も多いので第1部についてのみ記します。

 

最初は非常に具体的な例を紹介しています。

「性関係における男女の責任」

「学校と教師の責任」

「少年犯罪における親の責任」

といった、「責任」という言葉が使われやすい事態の中でどのような状況があるかを説明しています。

 

学校で事件が起きたりすると、学校や教師の責任ということが言われます。

そのため、昼間には校門を締め切ってしまうという学校が増えています。

しかし、校門を閉めるというのは単に象徴的な意味があるだけで、これで侵入者を防げるはずもありません。

事件を防止するのならすでに一部の私立学校などで行っているように警備員を置く方がよほど効果がありそうです。

責任論から考えると、学校や教師に子供の安全についてどこまで責任があるか、学校内だけでしょう。

それでも、学校から出た先で事件にあっても学校の責任を問う声が上がるのは、これまでの学校の在り方の幻想がまだ残っているからでしょう。

 

責任が免除される場合として、年少者、心神喪失者、心神耗弱者の犯罪が論じられています。

少女買春は少女の責任が問われず買った方の大人が責任を追求されます。

刑法第39条心神喪失者による犯罪は、裁判で常に争点となります。

心神喪失者に犯罪の責任を問うことができないとなると、そういった要素のある人間をあらかじめ拘束してしまうということにもなりかねません。

 

 

国家と国民の間の責任問題は、戦争についての場合には大きな問題となります。

戦争責任が国民にあるのか。

戦争を起こした当時に選挙権があった国民には責任はあるのでしょう。

しかし、戦争当時に生まれていなかった人々にその責任があるのかどうか。

先の戦争について、この問題をめぐる正反対の意見が出されています。

高橋哲哉という哲学者は、あの戦争に対する責任は戦後生まれの日本人にもあるとしました。

また、自民党高市早苗議員は戦後生まれには戦争責任は無いと発言しました。

これらの意見は両極端であり、実際はその中間が妥当だろうと思いますが、それがどの程度かということが難しいところです。

著者の意見では「戦後生まれの日本人は政治的な責任はあるかたちで引き継ぐべきだが、道徳的責任は負うべきではない」というものです。

 

昭和天皇の戦争責任ということも問題となりました。

天皇自身も責任をとって退位ということは考えていたようです。

しかし、アメリカの都合でソ連に対しての防衛線を確固とするという目的のために天皇の責任は問わずに何もしないままでした。

それがかえってその後のアジア各国の日本責任論を難しくしてしまった側面もあります。

また、形の上では戦後は国民主権になってしまった。

そのために、戦争責任も戦前の主権者であった天皇から戦後は国民に移ったという言い方もできます。

今からでも総括が必要なのでしょうか。

 

なかなか難しいのが責任というものでしょう。

簡単に「任命責任」などと言ってほしくないものです。

 

「責任」はだれにあるのか (PHP新書)

「責任」はだれにあるのか (PHP新書)