爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「戦後和解 日本は〈過去〉から解き放たれるのか」小菅信子著

日本は周辺国との間に軋轢を抱えていますが、これらは第二次世界大戦とそこまでの日中戦争、さらに植民地支配と言うところから生まれた問題と言うことができます。

 

しかし、そのような問題は日本とアジア各国との間だけにあるものではなく、世界中の様々な国の間に横たわっています。

現代は、「かつてなかったほど過去に縛られた時代」であるということです。

「平和のために過去を忘却してはならない」ということも言われます。

 

戦後和解というものを成し遂げるためには、歴史を見つめ直さなければなりません。

さらに、戦後和解というものが比較的上手く行ったと言える事例もあります。

しかし、困難なケースもそれをそのままにしておくわけには行きません。

この本では、そのような観点から、まず戦争犯罪裁判というものを取り上げます。

そして、戦後日本とはかなり違った道を歩んできたドイツの事例。

さらに、捕虜の虐待と言う事件を経て、明治以降最悪の関係となった日英が様々な努力により修復されていった経緯。

そして最後に、最も重い課題と言える、日中和解の可能性について語られています。

 

古代の戦争では、勝者は敗者を徹底的に滅ぼすということが普遍的に行われ、虐殺、奴隷化ということが付き物でした。

そこには、「戦後和解」などというものの入る余地はありませんでした。

しかし、中世から近代に進み、「人道」というものを尊重するということが広がってきます。

戦争中とは言え、残虐行為が行われることは許されないということになります。

20世紀初頭に行われた南アフリカ戦争では、イギリス軍の残虐行為が世界的に糾弾され、勝利したイギリス側も講和条件をかなりボーア人側に譲歩せざるを得なくなりました。

そして、第1次世界大戦では、勝者が敗者を裁くという戦争犯罪裁判というものが開かれるようになります。

しかし、本格的な戦争裁判は第2次世界大戦後の、ニュルンベルク裁判と東京裁判でした。

 

戦争裁判では、勝者の犯罪は裁かれず、敗者のみが被告となると言うものですが、それでもその裁判はある有効性をもたらします。

敗者側、つまり第2次大戦ではドイツと日本ですが、裁判をすることにより敗戦国の中でも戦争犯罪に加担した者たちと、それ以外の扇動され協力させられた者たちの「線引き」を行う事になったということです。

敗戦国側でも、無理やり戦争に協力させられ、被害を受けた者たちは被害者であると言う論理が勝者にも敗者にも共有されることになりました。

 

ドイツは、その線引きが上手く行き、ナチスとその協力者だけを犯罪者とすることで、他の大多数の国民は免罪されました。

しかし、日本ではちょうどその裁判の最中にソ連の圧力が強まり、共産国との緊張が高まる中で、アメリカの戦略として日本の旧権力者たちの協力を求めることとなり、戦争責任の追求が中途半端となりました。

わずかな数の戦犯だけが罰せられ、ほとんどのものが解放され復権しました。

その後、首相にもなった岸信介もその中に含まれます。

 

また、東京裁判ではアジアへの侵略、植民地支配については触れられないままとなります。

これは、裁判官側となるアメリカ、イギリス等の連合国は皆アジア植民地支配の宗主国であり、そこを問題とするわけには行かなかったという理由があります。

そのため、ほとんどの戦争裁判では、捕虜虐待などの対連合国兵士に対する犯罪のみを裁くものとなってしまいました。

さらに、冷戦が進行するに従い、米英を主とする勝者側の東京裁判に対する熱意は急激に冷めることとなります。

 

 

戦争捕虜の取扱については、日本は明治以降は欧米諸国から認められようとするあまり、非常に模範的な処遇をしてきました。

日露戦争や第1次大戦時の、ロシアやドイツの兵士の優遇はよく知られています。

しかし、その後はそういった戦争時国際法というものが欧米のご都合主義のルールと見なし反発するようになり、さらに自国民も含めて捕虜になるということ自体も敵視するということになり、その結果第2次大戦初期にアジア地域で捕虜となったイギリスやオランダ、オーストラリアの兵士などに対する扱いはひどいものとなりました。

英軍捕虜の死亡率は、戦闘よりも高かったということになります。

これには、映画「戦場にかける橋」でも知られる泰緬鉄道建設に使役された捕虜の多くの死亡が影響しています。

このため、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の対日感情はかなり後になるまで悪いものでした。

1970年代にイギリスを訪れた昭和天皇に対する反対行動は激しいものであり、最近の良好な日英関係しかしらない人には想像できないものかもしれません。

しかし、当時の生き残った軍人や、民間の日本人などの活動により、徐々に和解の雰囲気が広がってきます。

1998年の当時の橋本首相がイギリスの大衆紙「サン」に掲載した謝罪の投書は最終的にイギリスの世論を緩やかにすることに役立ったそうです。

 

いまだに大きなトゲが刺さったままのような、日中関係には打開の道があるのでしょうか。

終戦時に、当時の蒋介石国民党最高責任者の「怨みに報いるに徳を持ってせよ」という言葉は非常に有名ですが、実はこれは中国の国民に対して発せられたものではなく、降伏した日本軍に対してのものでした。

その時、すでに中国国内での共産軍と国民党軍との主導権争いは始まっており、降伏した日本軍の協力を得るためのものだったということです。

共産党側も、日本を意識していたために、東京裁判の評価も高く、「戦犯以外は被害者」と言う立場を明確にしていたそうです。

中華人民共和国成立後も、共産党政府は日本全体を戦犯とするような見方は抑えていましたが、それは中国国民の意識とは違っており、強権を持って押し付けたものでした。

1972年に日中国交回復を果たしたのも、アメリカの中国接近に焦らされたものであり、慎重な手順を無視していました。

中国側も急いだ対応となり、不備な点は多かったのですが、それで一応すべて収まったと安堵した日本側の油断がその後のトラブルのもととなります。

 

中国側は戦後和解の出発点としての東京裁判というものを、日本の理解以上に重視しているようです。

そのため、A級戦犯靖国神社合祀ということに対しては、日本側の想像以上に敏感になっています。

小泉首相以降の靖国参拝に、日本の感覚からすれば異常なほどの反応を見せるのはそのためです。

 

ただし、中国の姿勢も中国が途上国である間は世界的に同情をもって見られていたとしても、最近のように大国に発展してみると世界からも素直には見られなくなっています。

この辺には日本も考えるべきところがありそうです。

 

日中問題、日韓問題と言う個別の問題のように見ると、難しいことのようですが、戦後の和解と言う普遍的な問題として捉えると言うのは優れた視点だったと思います。