ケータイ、携帯電話というものを国民のほとんどが持ち、それでコミュニケーションを取っているという状況になりましたが、これは確実に「日本語」というものの性質を変化させています。
特に、電話というものを用いていても、現在は「話す」ことは少なくなり「メール」が多くなっています。
それがどういうことなのか、その深層から解析しているこの本は、かなり高度な内容であり、私自身も間違いなく内容を捉えているか不安なほどです。
本書の最初の部分は、「ことば」というものの持つ様々な様相を取り上げ説明しています。
「意味の歴史性」ということについては、「ヤバい」という言葉の意味が正反対になってしまったことを取り上げていますが、実はこのような現象はこれまでにも頻繁に起こっているということです。
「すばらしい」という言葉は江戸時代には「ひどい」「とんでもない」という意味でした
「すごい」という言葉も、古くはぞっとするほど恐ろしいという意味でした。
電話の発達に伴う言葉という問題も、電話の誕生時から振り返っています。
居ながらにしてはるか遠くの人と話ができるということは、空間を飛び越えてしまい、「空間の変容」ということを引き起こしました。
同時に「身体の拡張」ということでもあります。
留守番電話というものが出現した時も、その当時にすでに高齢であった人にとっては困惑が避けられないものでした。
向田邦子さんが1981年に書いた文章に、向田さんの父上が電話をしてきて留守番電話であることに気が付いたときに、非常に困惑し怒ったように録音したというエピソードが書かれています。
また、その電話に間違い電話を掛けてきた高齢らしき女性の録音も紹介されています。
「名乗るほどのものではございません」と話し、「どうもわたくし、間違ってしまったようですが、どうすればよいのでしょうか」と続け「失礼いたしました」と電話を切ったそうです。
電話が家庭などに普及しだした当初も、近所の電話保有の家庭や商店などに頼んで、呼び出してもらう「呼び出し電話」というものがありました。
今となっては想像するのも難しいような習俗ですが、そこには近所との付き合いというものが濃厚にかかわり、社会性を感じさせるものでした。
その後、各家庭にようやく普及してきますが、それでも長く「家庭に1台」の状態でした。
それも、居間にあったりして、そこに友達から電話がかかってくると子供などは長く話すこともできず、使いにくかったものです。
まして、異性の友達などからかかってくると大変なことでした。
それが、携帯化し移動電話となり、そしてそれは完全に個人所有のものとなることを意味したのですが、そこから劇的に関係が変わります。
相互が近いようで近すぎない、そういった微妙な他との関係性に変わっていきます。
さらに、現在ではケータイでも電話での会話は減少し、「メール」が圧倒的多くなります。
これは他国と比べても突出しているそうで、諸外国であれば電話で話す場面でも日本人はメールを使うということは、多くの人が指摘しています。
これは日本人が特に「他者との関係の希薄化」を進めているのかもしれません。
メールの書き方でも、言文一致ならぬ「言文一緒」が進んでいます。
かつての手紙のような一定の文型に従って書くということもなく、話すのと同じことを書くというのが普通になっています。
また、メールの内容には他を参照するということが無くなってきています。
他者の議論を正確に引用するということは、実はその他者に対する尊重であるということですので、それが無くなるということは、その欠如につながっています。
これも他者の希薄化ということなのかもしれません。
言葉が「名詞ばかり」になっているのも現代の言葉の特徴かもしれません。
ナントカ的、ナントカする、という形で、名詞を形容詞や動詞として使ってしまうのだそうです。
ケータイ全盛ということは、言語というもの自体にも大きな影響を与えているということなのでしょう。
ケータイ化する日本語―モバイル時代の“感じる"“伝える"“考える"
- 作者: 佐藤健二
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