最近では特に政治家などに英語由来のカタカナ言葉を連発しているのが多いようですが、それではどうであれば良いのか。
カタカナ言葉はダメでも、漢語なら良いのか。
漢字を音読みで使った言葉と言っても、中国由来ではないものもありますが、一応それも含めて漢語として考えると、話の中に漢語をかなりの分量で交えて話すという人も多いのではないでしょうか。
カタカナ言葉乱発の話と同様、漢語だらけの話をする人と言うのも、あまり美しくないというのが本書の姿勢です。
大和言葉とは、中国から漢字や漢語が入ってくる前から使われていた日本特有の言葉で、漢字を使って書き表すにしてもかならず訓読みをするものです。
そのような言葉の数々を、いろいろな状況に応じて使い方を示しています。
とは言え、やはり古来の大和言葉というものは今ではやや使いにくいものとなっているのは仕方ないことでしょう。
英語風の外来語をちりばめるのも鼻につきますが、大和言葉を連発というのもちょっと近づきにくい雰囲気に感じます。
お買い被りを/お戯れはもうそれぐらいで/嬉しゅうございます/ようこそお運びくださいました/ごゆるりと
といった言葉を連発する人はもうまず居ないように感じます。
噛み応えのあるパンや白飯などを「モチモチしている」と表現する人が多くなったようです。
著者がある時、知人が餅を食べて「モチモチしている」と言ったので、これはギャグだと思って著者が笑ったら、そんな意図は全く無かったその知人はきょとんとしたとか。
「餅がモチモチしている」というのは許される表現かどうかというのは微妙な問題でしょう。
なお、ここで紹介された大和言葉は「足が強い」です。
餅やかまぼこ、ちくわなど、弾力がある食物のことを「これは足が強い」と言うそうです。
なお、「足が速い」は腐りやすいことです。
身内などの死について語るのは難しいものですが、一番難しいのは相手の身内と自分の関係者の死の両方に触れる場合。
「ご尊父が亡くなったのと同じ週に私の親戚も亡くなりました」というように話すと、相手は不快に思うことがあるかもしれません。
かといって、自分の親戚の方は「死にました」というわけにもいかないのですが、こういう場合に使う言葉が「みまかる」だそうです。
相手の側は「亡くなる」自分の側は「みまかる」と使い分けることで、尊敬の気持ちを込めて、かつ丁寧な言葉に聞こえるそうです。
私もどうも漢語を多く使いがちの傾向がありますので、参考にしたいところですが、こんな言葉を連発したら舌を噛みそうという感じがします。