爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「危険不可視社会」畑村洋太郎著

「危険学」で有名な畑村さんは、東日本大震災福島原発事故のあとも大活躍されていますが、この本はその直前、2010年に出版されたものです。

したがって、東日本大震災原発事故の教訓については含まれていないばかりか、本書中の原子力発電所についての記述も少々的外れになってしまったのは残念ですが、本の内容は触れずにおくのはもったいないほどのものです。

 

現在の日本は、あまりにも「安全」というものを重視しすぎて、逆に「危険」があることを覆い隠し、見えなくしているようです。

それが「危険不可視社会」という本書題名にもなっている状態です。

特に、原発の状況はそれをよく示しています。(その後は大逆転してしまいましたが)

つまり、「原発は絶対に安全」ということを強調するために、「原発の持つ危険性」は故意に無視されてしまい、正当な危険性評価とそれへの対応というものも取れなくなってしまっているということです。(結局それが実現してしまいました)

 

安全な状態というものには、「本質安全」と「制御安全」というものがあります。

かつて、ビルの入口に設置された大型自動回転ドアに子供が挟まれて死亡するという事故がありました。

このドアには多くのセンサーが設置され、異常を感知するようにされていたのですが、小さな男の子が走ってドアに飛び込むという事態を想定されておらず、事故に至りました。

このような状況が「制御安全」の落とし穴になります。

事故の対策として、さらにセンサーを増設するとか、制御方法を変えるとかいった対策をしても、制御安全の上積みにしかなりません。

しかし、「本質安全」を目指すなら、そもそもあのビルに回転ドアは不向きということで別のドアに替えるとか、回転ドアでも軽い素材にして人が挟まれたらドアの方が壊れるという具合にすることになります。

 

制御安全というものが現代にここまで発展してきたのは、マイコン、すなわちマイクロコンピュータの急速な発達のためと言っても良いようです。

マイコンを用いることで、機械の働きを求めているように作ることが可能となり、機械の構造自体を考えるというよるは、機械の制御をマイコンによって変えることで、安全を追求する方向に進んでしまいました。

 

しかし、マイコン自体のトラブルも多発しました。

自動車でもオートマチック車の制御にはマイコンが不可欠でした。

ギアの切り替えをマイコンで制御するということが行われてきましたが、その初期にはマイコンの不良で異常運転をしてしまうという事故も多発したようです。

ドライバーの操作ミスということで片付けられたものが多かったのですが、実際はマイコンのプログラムミスや不良によるものも相当数あったようです。

 

機械には寿命があり、そのうちに必ず故障するというのは避けられません。

しかし、日本のものづくりの技術が高かったためか、メーカーの想定をはるかに越える年月の後も使い続けている人が多いようです。

扇風機が使用中に火を吹くという事故が多発しました。

それらは使用して30年以上たつというものでした。

これはメーカーの責任期間をはるかに越えていると言えますが、それでもやはりこういう事故が起きてしまうとメーカー責任を問われることになります。

特に危ない温風機やファンヒータなどを回収するというメーカーの広告が続くこともありました。

メーカーも何らかの対策が必要なのかもしれません。アポトーシス(自殺)する機械というものを作る必要があるのかも。

 

機械や設備における事故というものは毎日各地で起きているのですが、ニュースなどになるのはごく一部です。

特に、使用者に責任があるような事故はほとんど報道されることはなく、機械や管理者に責任がある場合だけ大きく騒がれます。

しかし、実際は使用者の責任といっても本質的に装置側に問題があることもあります。

エスカレーターで歩いて上がり下がりするのは危険だと言われていますが、なかなかやめようとせず、それが原因の事故も頻発しています。

本人が悪いといえばそうなのですが、止めさせない管理者にも責任があると言えそうです。

 

遊具で遊ぶ子どもたちが事故にあうということもありました。

そのため、危険と言われた遊具、特に遊動円木、箱型ブランコ、回旋塔という三種の遊具は全国の遊園地から姿を消しました。この三種を「遊具絶滅三種」と呼ぶそうです。

しかし、これらの遊具も危険な部分を変更して改良すれば危険とは言えなくなります。

特に、「生存空間」という隙間がないために挟まれると重大な事故につながったのですが、それも十分な生存空間を確保するか、逆にまったく入り込めないようにするかという改修で、使い続けることが可能でした。

それが、管理者側の危険回避一番という対応で、除去すればそれで良しということになってしまいました。

結局、ああいった子供の運動能力を高めるような遊具が皆排除され、乗っても面白くないようなものばかりになり、子供も遊ばなくなるそうです。

 

著者は阪神淡路大震災の際も現地の視察に訪れたのですが、破壊された建物、完全に無事な建物という差が激しかったそうです。

これは1981年の建築基準法改正により、それ以前と以降で建物の強度がまったく違ったためでした。

しかし、建築基準法改正はあくまでも新築建物の基準であり、既存の建物については触れていません。

これを「既存不適格問題」と言います。

これらの建物も建てた時は適法でした。その後は法改正で基準を満たさなくなっていますが、すぐに改装とか使用禁止とかいうことはできません。

しかし、既存不適格の建物があるということで、危険が高まっているのは確かです。

社会のコストは高くなりますが、何らかの対策が必要です。

(この指摘は熊本地震でほとんどそのまま再現しました)

 

なお、中の挿話で一つ興味深いのがありました。

アメリカ、ヒューストンでエレベータ事故で日本人が死亡したのですが、アメリカの警察の調査で関係者が故意に起こしたのではないと判明すると、「事件性がない」としてそれ以上の捜査はしなかったそうです。

アメリカには「業務上過失致死傷罪」というものがないので、それ以上は警察は関与しないとか。

そのため、民事訴訟で損害賠償を求めるしかないのですが、被害者側がその証拠を集めるしか無く、訴訟も困難を極めたそうです。

日本やヨーロッパでは業務上過失致死傷罪が存在するため、最初の捜査でも警察が関与するのですが、国による違いが大きいところなのでしょう。

というか、アメリカがひどすぎると感じますが。

 

さすがに畑村さん。中身の濃い本でした。

 

危険不可視社会

危険不可視社会