古代ローマの宗教というと、ギリシア神話と似たゼウスやジュノーといった神々の信仰が主であり、それに対抗しながらキリスト教が広まっていきやがて取って代わるというイメージですが、どうやらそんなに簡単なものではなかったようです。
ローマ帝国が強大になっていくと、各地を帝国に組み入れたためにそこから流入してくる人々が増えてきたのですが、彼らは故郷で信仰してきた宗教をそのまま持ち込んできました。
ローマ人はそれらの宗教に寛容であったばかりか、自らもそれに入信することが多かったようです。
特に、オリエント方面のエジプト、シリア、小アジアなどの宗教は隆盛を誇ったようです。
さらに、帝国内に含まれないペルシアからもミトラス教が入り込み、これも信者を増やしました。
キリスト教もこのようなオリエントの宗教流行の一部であったと捉えるのが妥当かもしれません。
しかし、キリスト教はその教義が民族性を越えたものであったためにさらに信者を掴みやすくやがてはローマ帝国の国教となってしまいました。
ヨーロッパや中近東の文明はメソポタミアとエジプトという、オリエントの地方に起こったものが発達して成立しました。
メソポタミアではシュメール人が、エジプトではエジプト人がその担い手でしたが、どちらも宗教というものを作り出しました。
そして、その後を継いで各地に起こった文明でもそれぞれが宗教を作り出しています。
その一部族であるヘブライ人が作り出したのがユダヤ教で、その中からキリスト教が派生します。
ローマ帝国はその後オリエントも領有するような大帝国となりましたが、この地域の各民族が作り出した宗教というものは、ローマ人にとっても魅力のあるものだったようです。
ギリシア人は早くからオリュンポスの神々の信仰を持っていましたが、その後文明化が早かったために神話も理性的に作られてしまいました。そのために、庶民が信じるような宗教というものの不在という問題もあったようです。
ローマ人はギリシアから見ても僻地の部族から発達しました。
その初期の頃の宗教というものは、形式的なもので、大祭司を中心とし、鳥で未来を占う鳥占官といったものまで公務員とするというものでした。
彼らの神はヌーメンと呼ばれ、ギリシアやオリエントの神のように擬人化され神話や神像が作られるものではなく、一種の「力」と考えられていました。
初期のヌーメンとしては、ヤヌス、ゲニウス、ウェスタ、ペナテスが知られており、農家の1年の生活を定めた暦にもとづいて祭礼が行われました。
しかし、ローマが対外進出を始めるとギリシアやオリエントの先進地域の宗教に影響され、ヌーメンも擬人化されユピテル、マルスといった名前が付けられるようになります。
さらに、ギリシア神話との習合が起こり、ユピテルはゼウスと、ミネルヴァはアテナと、ウェヌスはアフロディテと同一視され、他の神々も信じられるようになりました。
その後、ローマ人社会は第二次ポエニ戦役(前218-201)の後には貧富の差が激しくなり社会の混乱が生じてローマ古来の宗教を信仰するものも少なくなってしまいます。
それにかわって、オリエント起源の神々が個人の好みに応じて信仰されるようになります。
とは言っても、それらの宗教はギリシア語を採用しており、神々の像もギリシア彫刻風のものでした。本来のものとは相当違ったものになっていました。
当初はこのようなオリエント宗教などはみな「外来の迷信」と呼ばれ、キリスト教も含めて排除しようとされたのですが、ローマ市民を魅了するものであったためにやがて広く信者を集めるようになります。
それらは、厳格で形式的なローマ古来の宗教とは違い、音楽や舞踏を取り入れた祭が行われ、祭司たちの色とりどりの法衣が神秘的な魅力を振りまきました。
また、ローマの神殿には専任の聖職者というものはなかったのですが、このようなオリエント宗教には聖職者がいて禁欲生活をしたりして信者の尊敬を集めていました。
このようなオリエント宗教としては、エジプト系でイシスとセラピス、シリア系のデア・シリア、ユピテル・ヘリオポリタヌス、ユピテル・ドリケヌス、小アジアのキュベレとアッティスなどでした。
その中でも非常に広く信仰を集めたのはミトラス教でした。
ローマ人がミトラと呼んだこの神は他のオリエント宗教が他の民族の起源であったのに対し、広くインドヨーロッパ語族の間で信仰されてきた神でした。
インドのミトラ神はその後大乗仏教の神の一柱として弥勒菩薩になります。
ローマに入ったミトラス教はイランの地でヒッタイト帝国やペルシア帝国に神として発展したものです。
ペルシア帝国ではゾロアスターの宗教改革の影響でアフラ・マズダ信仰も広まったのですが、それと並んでミトラス信仰も根強く継続していました。
それがアレクサンダーによる占領後もヘレニズム時代の各国に継承されていきます。
その後、ローマがその地域を併合すると人々の移動に伴いローマ帝国各地にミトラス教が広まっていきます。
ローマ皇帝が自ら入信したということはなかったようですが、多くの宮廷人が信者となり皇帝もミトラス教に財産を寄進したという記録があるようです。
しかし、その後はキリスト教の隆盛にともない、キリスト教徒の攻撃を集中して受けて消滅していきます。
ローマ帝国内でのオリエント宗教としてはユダヤ教も広く普及したものでした。
しかし、ユダヤ教はユダヤ人の民族宗教という性格が強すぎ、他の民族への布教ということがなかったためにユダヤ人の分布と同じという程度にとどまりました。
その詳細は他にいくらでも書籍・資料がありますので詳細はそちらに任せますが、キリスト教の成功の要因をまとめると次のようなものです。
第一に組織力、キリスト教はローマ市に中心を置き、統一的な運動をしました。
第二に、他宗派は信者に経済的負担を大きくかけ、また密教的であり閉鎖的でした。
第三に、キリスト教の信仰は非妥協的で他の宗教を受け入れることはなかったのに対し、他の宗教はお互いの神々に寛容でした。
これまでの印象以上に、ローマ社会では様々な宗教が並び立って、それぞれが宗教行事を競って行っていたようです。
それが不寛容のキリスト教によってすべて排除され現在に通じるキリスト教社会となっていったということです。