戦国時代末期に伝来したキリスト教は、多くの信者を獲得しましたが、秀吉や江戸幕府により死刑をもって禁止されました。
そのために、多くの殉教者が出たのですが、実はこれほどまでに多数の殉教者が出たというのはキリスト教の長い歴史の中でも珍しいことのようです。
古代ローマでキリスト教徒が弾圧を受けた時期には確かに多くの信者が殉教をしたのですが、キリスト教がローマ帝国によって公認された後にはキリスト教徒であることを理由とした処刑、すなわち殉教というのはほとんどありませんでした。
日本での殉教者のその数は4000人以上、ヨーロッパからの宣教師なども含まれていますが、ほとんどは日本人の信者だったそうです。
殉教のイメージを作り上げた一つの本が遠藤周作氏の著した「沈黙」でした。
ここでは宣教師ロドリゴが捕らえられ拷問の末に棄教していますという姿を描かれていますが、これはあくまでも現代から遠藤氏が見た殉教と棄教というものであり、歴史上の実際の姿とは大きく異なっています。
4000人の殉教者の他に、多くの棄教者も居たはずですが、彼らも「沈黙」に描かれていた姿とはまったく違っていただろうということです。
ロドリゴ(架空の人物ですが、宣教師ジュセッペ・キアラがモデルかとされています)は禁教下の日本に潜入、捕らえられ日本人信者とともに拷問されるのですが、このような苦難を受けているにも関わらず、神は何もしようとしないことに疑問を持つとされています。
しかし、当時の宣教師のみならずキリスト教徒はこのように考えるはずはないということです。
その証拠を当時の資料からいくつも挙げているのですが、日本の支配者たちがキリスト教を禁じ、死刑を科すという情報が伝わると、イエズス会などは「殉教の勧め」というものを出し、宣教師たちはこぞって日本を目指します。
日本人教徒たちも禁令に対しすすんで名乗り出るという行動に出ます。
それで捕らえられ、拷問され殺されたとしてもそれが神に近づく方策であると信じていたからです。
また、キリスト教には「聖遺物信仰」というものがありました。
現代の感覚からすればいささか不気味な気もしますが、聖人などの肉体そのものを聖遺物として信仰の対象とするものです。
殉教した信者の肉体というものもその信仰の対象となりますので、殉教者の遺体を奪い合うという事態に至ります。
これは、日本の為政者に恐怖を感じさせ、より厳しいキリスト教追放へとつながります。
このような禁教の弾圧を、当時の信徒たちは「歓喜した」と描かれています。
それが殉教への近道であり、キリスト教の歴史上絶えて久しくなった殉教者になるという名誉をもたらすものであったからです。
しかし、秀忠、家光とキリスト教に厳しい将軍のもとで禁教が続くと、民衆の中ではほとんどキリスト教徒は絶えました。
宣教師はその頃になっても変わらずに日本潜入を企てては、捕らえられ処刑されるということが続いていたのですが、初期の頃にはその殉教者に多くの信者が群がるように集まってきたのが、ほとんど冷ややかに見つめるだけになってしまいました。
そこまで来てようやく日本からほぼ完全にキリスト教徒が居なくなったということです。
殉教といえば、島原の乱というものが思い起こされますが、これはどうも殉教というものには全く当たらないもののようです。
まず、キリスト教では抵抗することを許していません。
抵抗すること無く弾圧には喜んで殺されるのが殉教であり、一揆を起こして抵抗するというのは認められていません。
そのため、天草島原の乱の一揆の犠牲者は今でも殉教者とは考えられていません。
また、島原の領主松倉重政の苛政が原因とも言われていますが、彼が特にひどい政治をしたわけでもなく、どこも似たような状況だったようです。
たまたま、天草島原地区のキリシタンが大胆不敵な布教活動を再開し、それを抑えようとした領主と偶発的にぶつかったのではということです。
最後は一揆の人々もほとんどが死んだのですが、原城に総攻撃を仕掛けた幕府軍側の記録によれば、一揆のキリシタンたちは多くが自ら生命を断ったということです。
これは、キリスト教徒としてはありえないことであり、異端の行為ということです。
1642年にイエズス会の日本巡察使アントニオ・ルビノが日本潜入を企てたものの、すぐに捕縛され死刑にされました。
それ以降は宣教師の日本潜入は行われず、日本人信者の多くは棄教し、ごく一部の地域で隠れキリシタンとなりましたが、司祭も無く独自の祈りをささげるだけだったために、本来の教義からはまったく離れた信仰となってしまいました。
大殉教時代とも言えるのはごく短い年月だけであったようです。