題名から受けた印象で、地図と旅の本で日本海に関わるものかと思い読んでいきましたが、最後に著者の略歴を見てびっくりしました。
著者の中野さんは中国文学専門で、翻訳書も数多く出版されており、岩波文庫版「西遊記」の訳者だとか。
そこまできて思い当たったのが、この人の本、前に読んだことがあるということでした。
「西遊記 トリック・ワールド探訪」中野美代子著 - 爽風上々のブログ
その時の本は一応、西遊記絡みということで納得できるものでしたが、今度の本はまったく印象が異なりました。
なかなか引き出しの数も多くしかもその中味も豊富な方のようです。
本書は日本海にまつわる話ということですが、さらに「地図」というものも大きな部分を占めています。
「西遊記」「ガリヴァー旅行記」そして、ラペルーズの日本海への航海、さらにロシア人の海への欲望といったことが取り上げられています。
その中でも特に興味深かったのは、フランス人ジャンフランソワ・ド・ギャロ・ド・ラペルーズの航海の話でした。
18世紀のフランス海軍の軍人であったラペルーズは、国王ルイ16世に命ぜられ探検航海に出ます。
その少し前にイギリスのキャプテン・クックが3度にわたる探検航海を実施し、大きな成果を上げたのをフランスは嫉妬していました。
そこで、ラペルーズが企画した探検を国として実施し成果を求めたものです。
その企画とは、クックが訪れなかった海域の探検を主とし、朝鮮半島東岸から日本海の両岸の探査、さらにエゾ地の探査、それに続く日本北東海域の探査その他のものでした。
参加者は乗組員223名、天文学者地理学者等々の学者・画家など16名で、二隻の軍艦に分乗し出発しています。
マカオから台湾を経由し、与那国島、尖閣諸島付近を通過していますが、計測し地図に書き込んでいるものの、上陸はしなかったようです。
さらに鬱陵島に接近したものの、住民が居たために上陸はしませんでした。
しかし、ここで地図にその島を書き込んだのですが、その海を「MER DU JAPON」つまり日本海と書きました。
その当時のヨーロッパの地図ではこの海を「朝鮮海」と書かれることが多かったそうですが、ラペルーズの地図が普及することで「日本海」という名が定着したそうです。
日本沿岸にも近づき、能登の舳倉島には接近したのですが、ここも住民が居るために上陸はせずに観察するだけでした。
その観察文に、「館のようなものが認められ、絞首台か処刑台のような支柱と太い梁がはっきりと見えた」とあります。欧州の領主裁判所の処刑台にそっくりだったということですが、どうやら神社の鳥居だったようです。
その後、ラペルーズ艦隊は宗谷海峡を通過しオホーツク海に出ました。
欧米の地図では今でも宗谷海峡のことを「ラペルーズ海峡」と表記されているそうです。
さらにカムチャッカ半島まで探索をすすめ、その後アメリカ大陸沿いに南下、そこからオーストラリアに立ち寄ったのですが、その後消息を断ってしまい、誰も戻りませんでした。
なお、途中のカムチャッカで乗員のジャン・バプティスト・レセップスにそこまでの航海日誌や記録、資料などを持たせてロシア経由で母国に持ち帰らせました。
そのために多くの資料が失われずに後世に残ったわけです。
このレセップスは、のちにスエズ運河を作ったフェルディナン・レセップスの叔父だそうです。
日本海と言えば、日露戦争時のバルチック艦隊(正確には第2太平洋艦隊だそうです)についても描かれています。
ロシア帝国は長い間、海への出口を持つことができず、ようやくバルト海沿岸とはいってもフィンランド湾の最奥のリエパヤに軍港を得ました。
そこを第二太平洋艦隊がはるか彼方のウラジオストクに向けて出向したのは1904年10月でした。
戦艦だけで4隻、全艦43隻、兵員16000人という大艦隊です。
海戦となれば日本の海軍など相手にならないと見られていました。
しかし、日本の水雷艇が出没しロシア艦隊を狙っているという噂がたち、ロシア兵たちの神経を苦しめました。
バルト海を抜け、イギリス沿岸の北海にさしかかったところで、イギリスの漁船群に対しいきなり発砲して大きな被害を与えるという失態を演じています。
さらに、スエズ運河は通ることができず喜望峰を回らなければならなくなりました。
赤道を越える炎暑の航海で水兵たちは消耗してしまいます。
そのあげく、たどり着いたと思ったら日本海軍に壊滅させられたわけです。
その後、わずか1月で黒海艦隊のポチョムキンの反乱が始まってしまいました。
この物語が多くの地図図版とともに語られているのですが、閑話休題の連発、挿話が多く飽きさせません。
なかなか、変わった雰囲気を味あわせてくれる本でした。