邪馬台国の女王卑弥呼は神の言葉を告げる巫女のような存在であり、実際の政治は弟が当たっていたというようなイメージがありますが、これは実はごく新しく作られたものであり、実はそうではなかったのではないかというのが著者の研究の結果出てきた結論ということです。
そのために、古代の同様な状況での記紀や風土記その他の記述を比較すると、同様な例がいくつも見つかり、決して巫女的な女王などというものばかりでなく、男同様に政治にあたり戦争にも指揮をしたような指導者ではなかったかと言うのが著者の主張です。
各地の風土記には土蜘蛛や隼人などと呼ばれた蛮族を征服していく大和朝廷の記述がありますが、それらの蛮族の首長には男ばかりではなく女としか見られないものが数多く記録されていたようです。男ばかりが指導したというのは実はその後入ってきた中国風の習慣であり、原住民であったそれらの種族では力があれば性別に関係なく指導者となっていたということです。
また、それは蛮族ばかりではなく邪馬台国やヤマト朝廷側でも同様ではないかということです。
魏志倭人伝の記述で「鬼道を事とし能く衆を惑わす。男弟ありて国を佐せ治む。王となりて以来見ることある者少なし」といったものがあり、これが巫女で実際の政治は弟が行ない、自らは神殿の中で人にも会わないというイメージに結びつくということですが、実際は他の首長であっても「鬼道」を行うのは同様であり、また「国を佐せ治む」とはあくまでも補佐であったということで、これも他のヤマトの男王の記載と同様であるようです。また、人に会わないといってもこれは中国の使者に会わないということであり、実はそののちのヤマトの大王も中国からの使者に直接会おうとはしていないという事実があるということです。
ワカタケルといえば雄略天皇ということでまず異論がないところですが、この朝廷に中国から訪れた使者も天皇に直接会うことができず接待の者に会えたのみということがあり、これは古代の朝廷の習慣かもしれないそうです。
しかし、前記のような卑弥呼像というものができた過程をたどってみると、実はそれは明治時代になってからということが判ります。明治も末期になってから邪馬台国論争を行った内藤虎次郎と白鳥庫吉は畿内説と九州説に別れて激しく議論をするのですが、その卑弥呼を宗教的指導者と見る観点は共通であり、それはそれ以前の視点とは異なるものだったようです。あくまでも明治期の男尊女卑と軍事指導者としての天皇制というものの確立が卑弥呼像の変換にまで影響を及ぼしてしまったというのが著者の視点でした。
なお、倭人伝には倭の婚姻形態が一夫多妻で多いものは4-5人の妻を持つとありますが、これもその後の飛鳥期の戸籍などを見てもまったくその影も見えず、倭人伝に引かれた情報をもたらした、おそらく中国からの使者の誤解によるものということです。
その後も長く「妻問い婚」であり、結婚して一戸に住むと言う形態はさらに遅くならなければ成立しなかったわけで、おそらく古代もそうであったならば、確定した夫妻というものは無かっただろうということです。
そこで中国から来た使者が、男性に「妻は何人いるか」と問えば「4-5人」と答えたのかもしれませんが、実は女性に尋ねても同じような答が返ってきただろうということです。しかし、中国人の使者はそのようなことは夢にも思わずに当然女性にそのような問いはするはずもありませんでした。
こういった事情はその後の戸籍にも表れており、戸主と妻とその子供として書かれている他にも、女性と子供だけが書かれていて父親が不明であったり、また母親と子供が記されていてもその子供の名前に何通りかの区別(つまり父親が違う)という証拠が明らかな例もあるそうです。そもそも、子供の年齢が一緒のもの(双子ではなく)も見られるとか。別の母親が居たけれど家には入っていないと言う事情もあったのかもしれません。
倭人伝も隅から隅まで検討されていたような気もしましたが、それとは異なる視点から見られたような本書の記述は興味引かれるものでした。