爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「古代の福岡 アクロス福岡文化誌3」アクロス福岡文化誌編纂委員会編

アクロス福岡とは、1995年に旧福岡県庁の跡地に公民複合で建設された施設で、国際・文化交流を目的としているそうですが、文化事業もやっているそうで、文化誌編纂も3冊目となるようです。

そのためか、実際に執筆された方々の顔ぶれを見ても福岡県庁の文化財保護課や各市町村の教育委員会の所属ということで、地元の歴史的遺物にも非常に詳しいということは想像できます。

 

福岡は古代には文句なしに大陸からの文化流入の最先端の場所であり、今でも多くの遺跡から新たな発見が相次ぐというところです。

邪馬台国の所在地こそ近畿地方と争い、その後の歴史では大和に中央の座を譲りますが、歴史的重要性は非常に大きいところです。

そのような福岡の古代というものを、旧石器時代縄文時代から大和政権下で大宰府が「遠の朝廷」(とおのみかど)と称された時代までを、豊富な写真とともに見せてくれます。

 

まあ、大学の研究者のように独自の理論を打ち出すということもないでしょうから、少し面白みは欠けるかもしれませんが、一応現代の歴史学界の主流派的解釈は見ることができます。

 

氷河期末期には現在の海水面より120mくらいは海面が低下していたと見られます。

現在の対馬海峡はそれよりは深いのですが、陸橋もしくは氷床ができていた可能性はあり、そこを通って人間だけでなく動物も大陸から九州へ移動してきたのかもしれません。

今から2万5千年前の石器が福岡県内でも各種発見されています。

1万3千年前の縄文時代に入ると、温暖化して海水面が上昇し今とほぼおなじ地形になります。

当時の土器なども数多く出土していますが、割合は低いものの朝鮮半島と共通の土器や装飾品も含まれており、この時代にも何らかの交流があったと言えそうです。

 

縄文時代末期には稲作も開始されていたということが、福岡周辺の遺跡から分かります。

佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは水田跡と炭化米、木製農具、石器が出土しています。それらは朝鮮南部のものと酷似しているそうです。

当時の遺跡から発掘される人骨を見ても、朝鮮半島南部のものと似ており、渡来してきた人々が稲作を始めたと見られます。

 

魏志倭人伝でも伊都国、奴国の記述がありますが、それぞれ最盛期というものは少し前の時代であり広い範囲に及んでいたことが遺跡の遺物から分かるようです。

三世紀中頃に築かれた、那珂八幡古墳は奴国の首都であったと考えられる那珂にあり、福岡県最古の古墳と考えられています。

奴国の首長のものと考えられますが、当時のヤマト政権との関係も考えられます。

 

邪馬台国に関する部分は、九州歴史資料館館長の西谷正さんが書いていますが、その所在地のみを記すわけではなく、それ以前の諸国の様子と変遷に触れています。

邪馬台国に至る前の時代、北九州のイト・ナといった国々は中国からの影響を受け先進的な体制を構築していました。

中国の冊封体制にも組み込まれており定期的に朝見をしていたようです。

当時はまだ近畿地方には個人墓の大規模な物は見られず、国としての体制が遅れていたようです。

その当時の北部九州系の青銅器は東北地方南部まで到達しておりその広がりは大きいものでした。

邪馬台国がどこにあったにせよ、それを支えたのはイトやナといった北部九州の国であったろうとしています。

 

やはり古代を語るには福岡というところ抜きでは無理でしょう。

 

古代の福岡 (アクロス福岡文化誌)

古代の福岡 (アクロス福岡文化誌)