著者の中村さんは大学工学部を卒業した後、ゼネコンに定年まで勤めましたが、その後古代史を趣味として研究してきたそうです。
そのように、「古代史学会」外部の目から見るとその中では権威とされる大学者でもかなり疑いを持たざるを得ないような手法で結論を引き出すということが為されており、とても科学とは言えないものと感じたそうです。
例えば、中国の歴史書などに書かれていることも、ある日本側の事情に反するからと言って、「この部分は誤りである」とか「ここはこう読み替えると合う」といったことを平気で行い、それで自分たちが組み上げてきた歴史観を守っているだけに見えるそうです。
その中で、九州王朝説を発表した古田武彦氏の学説は、論理的であり証拠を大切にしていると感じ、傾倒していったそうです。
しかし、古田氏の学説は既成の古代史学会ではまったく相手にされず、ほぼ無視という状況になってしまいました。
しかし、魏志倭人伝の中での「奴国」というものの扱いは既存学会の学説ではほとんど全てが「博多湾岸である」ものとしています。
例の漢の皇帝から貰ったと言われる金印「漢委奴国王」が博多湾で見つかった(と言われる)ことや、博多周辺がその後「那の津」と呼ばれたことなどから、確定扱いをされており、この部分については古田氏の学説でも同様です。
ここに疑問を持って、非常に詳しい考察をされているのが本書で、著者の中村氏が詳細な考証を重ねています。
三国志の書かれた晋の時代に、「奴」という漢字をなんと読んでいたか。
それが実ははっきりとはしていないそうです。
逆に、日本ではこれが「なこく」に当たるという先入観から、当時の中国でも「奴」を「ナ」と読んでいたはずだと決めつけているのが実情です。
著者はこれは「ヌ」または「ノ」と読んでいたと結論しています。
したがって、金印の「委奴」も「イノ」または「イヌ」であり、倭人伝でも「奴国」は「ヌ」「ノ」という地名を考えなければならないとしています。
さらに、魏志倭人伝で使われている距離を測る単位としての「里」についても広範な証拠から考察しています。
これについては、魏志倭人伝研究者のほとんどが他の時代の「里」と同様に約400mであるとし、魏志倭人伝に書かれている里程は誤解しているか、誇張していると判断しています。
しかし、著者の中村氏は、三国の魏王朝では前の漢王朝とは違う単位を採用したのであり、一里が77-80mであるということを論証しています。
それに従って魏志倭人伝の魏からの使いの進んだ行程をたどれば、ぴったりと北九州の内部に収まるということを論証しています。
それによれば、邪馬壹国は福岡市東部、奴国はその手前の室見川中流域であるということです。
非常に興味深い方法論と、判断力であると思います。
魏志倭人伝の行程記述などは、その著者の陳寿の事情による誇張に過ぎないといった学説もつい先日読んだばかりですが、それよりはこの中村さんの学説がすっきりとしていて納得できるものと感じました。