爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「スクラップエコノミー」石渡正佳著

石渡さんは千葉県庁で産業廃棄物行政を担当し、「産廃Gメン」として活躍されたという方ですので、この本も「スクラップ」について廃棄物の観点から見たものと思いましたら、なんと国家経済や国の政策について非常に広く大きい見方を繰り広げられるという、良い意味で期待を裏切ってくれた本でした。

 

日本の住宅というものは、耐用年数が短くあっという間に資産価値が無くなってしまうと言う話は知っていましたし、会社の建物設備などの減価償却という制度もなんとなくはわかったつもりでいましたが、それが意図的に短い期間でスクラップとされることで、経済成長を果たしてきたカラクリというものが裏にあったと言うことは、この本を読むまではまったく気が付きませんでした。

 

まさに、目から鱗が落ちたと言うものです。

 

リサイクルなどというものがもてはやされ、様々なリサイクル法が作られていますが、そもそもロングライフが先に来ていればリサイクル自体の影響力も低下します。

ロングライフを成し遂げれば、ストックの価値も高まります。

それと全く逆のことをしてきたのが戦後日本の高度経済成長だったのです。

 

住宅の平均使用年数は、日本では26年と言われています。

しかし、アメリカでは44年、イギリスでは実に75年ということです。

日本では新築の戸建住宅でも評価額が建てたその年に70%、数年で50%を切り、長くても15年でほぼ0となってしまいます。

アメリカでは適当な手入れをしている限り、新築時の85%程度までしか下がりません。

日本で住宅ローンで住宅を購入すると言う行為は不良債権形成に他なりません。

耐用年数の長い住宅を建てるには建設費が多くかかるのでしょうが、それでも長く価値が残る方が良いにも関わらずそれができないのは、制度として有利にならないようになっているからです。

そして、それが住宅建設による経済効果を得たいがための社会構造を支えているからです。

 

ごみ処理の問題から、家庭ごみの減量化や分別排出などを進める運動が全国どこでも進められていますが、それでも現在の排出量で一生(80年)ゴミを出し続けると、生涯で32トンのゴミを出すことになります。

これを少しでも減らそうという努力をしているのですが、実は26年でゴミになる住宅は1軒で30-50トンになります。

生涯で3軒の家を建てる、つまり3軒の家をゴミにすればそれだけで100トン近いゴミを排出することになります。

イギリスは現在、実際に70年持つ家を建てています。日本でもそれくらいの家を建てる体制にすればそれだけでゴミの量も激減させることができるわけです。

 

このような、強制的に短い周期で住宅をスクラップにしていく制度、これをスクラップエコノミーと呼んでいますが、これが明治以来日本経済を繁栄させてきた仕組みなのです。

ストックを積み上げそれを大切に使っていくのではなく、安っぽいものを作り出しては捨てていく、そういったフローを膨れ上がらせるのが日本経済の本質だったのです。

その結果、世界第2位(本書出版当時)の経済規模にまで登りつめながら、実質的な豊かさが感じられない状態になってしまいました。

 

これは、住宅や自動車、消費財だけにとどまりません。

実は都市や社会インフラといったものでも同様なのです。

公共投資にも同様に高回転経済理論が適用され、安物ばかり作られてきました。

作っては壊すことがGDP増加につながりました。

数字の上では経済規模が増大しましたが、実質は違います。

 

出来るだけ早く「高ストック低回転経済」への転換を目指すことが、真の豊かさを感じられる社会への道なのですが、これまでの「低ストック高回転経済」で利益を得てきた連中が社会を引っ張っている以上、その転換は非常に困難となっています。

 

本書はその転換に必要な政治体制の変換も述べており、非常に内容の深いものとなっています。

 

 日本経済が「安物作り」であるというのは感じていましたが、それが経済規模の水増しにつながるというのは興味深い指摘でした。確かにそうなんだろうと思わせます。

 

「日本民族の誕生 環日本海古民族と長江流域文化の融合」安本美典著

在野の古代史研究家である安本さんが非常に大きな観点から日本民族の古代の成立について語っています。

著作は何冊もあるものの、既成古代史学会からは無視同然の扱いといったところでしょうか。

しかし、この本を見ても関連する研究者の意見には丹念に目を通し取るべきは取るといったところが見え、その主張にも妥当なところが多いように感じられます。

 

本書は非常に広く長い歴史的な観点から、新人類の出現と出アフリカ、そして日本列島へたどり着くまでの経過、縄文中期の鬼界カルデラの大噴火によって九州を始め西日本での人口急減、弥生文化の特徴と発祥、日本語の成立まで論じています。

 

遺伝的な日本人の由来という問題は、考古学者、遺伝学者が多くの実験的検討を行い結果も出ていますが、文化や言語と言う問題は遺伝子だけでは捉えることができないものを含んでいます。

多くの人々がすでに住む地域に、たとえ少数でも優れた文化を持つ人達がやってきたらどうなるか。

元から居た人々を駆逐するというよりは、受け入れ融合し文化のみを発展させたのかもしれません。

弥生文化に中国南部の少数民族の文化と共通するところが多いのもそのせいではないかとしています。

 

また、これは水稲栽培が朝鮮半島を経由したのではなく、中国大陸から直接やってきたのではないかという推測にもつながります。

朝鮮半島を経由し陸路で伝わるためには遼東半島の北側を通らねばなりませんが、その地域には水稲栽培の遺跡もなく非常に寒冷な気候のため水稲栽培は無理だったようです。

 

著者は、倭人の時代から現代に至るまで続いている「弓」の特異性についても取り上げています。

日本の弓は非常に長く、さらに上下が対称形ではなく上が長く下が短いという特徴を持っています。

実は世界的に見ても、このような長弓というものは珍しいもののようです。

ほとんどの地域ではアーチェリータイプの短弓を使っており、日本でもアイヌは短弓です。さらに縄文時代の弓もそれと似通ったもののようです。

朝鮮半島でも短弓を用いています。

それが、弥生時代倭人から2mにも及ぶような長弓を使うようになり、これは現代まで続いています。

実は、このような長弓は日本の他には太平洋の南方の島国に見られるそうです。

空中を飛ばすには短弓の強いものの方が有利であり、飛距離も長いのですが、長弓の有利な点は「水中の魚を射る」ことにあるそうです。

 

日本民族の成立には、日本語の特色からも分かるものが関わってきます。

日本語は類似した言語がほとんど無いと言えますが、基礎語彙、文法、音韻と別けて考えると、文法と音韻は朝鮮語アイヌ語に非常に似通っていることがわかります。

一方、基礎語彙は南方諸言語と共通のものが多いとしています。

つまり、元々は朝鮮語と類似した言葉を使っていたところに、強烈な文化を持った南方からの人々が中国南部からやってきた。

彼らは人口としては少なかったので土着の人々と入り混じりながら広がってきたので、基礎語彙はかなり自分たちのものを使うようになったものの、文法などは元のままだったのではないかということです。

なかなか面白く、結構納得させるような見解かと思います。

 

「知ってるようで知らない ものの順序」ことば探偵団

いろいろな雑学を並べてある、軽い読み物です。

一応、「順序」というものに絡めて説明されていますが、必ずしもそればかりでも無いようです。

 

通夜・告別式での拝礼の順序といったものから、結婚祝い、香典の額の順序、会議室・応接室の席順といったものなど、まあ知っておいた方が良いかなといったものが並んでいます。

 

しかし、そういったものは常識的なものであまり面白くもないので、最後の章の「役に立ちそうもない順序」のところを紹介しておきます。

 

ミイラを作る順序(古代エジプト方式)

脳みそを取り出す。

遺体の左腹部を切り内蔵を取り出す。内臓と体内にナトロンと呼ばれる液体をかけ、40日間おく。

体の空洞にリネンを詰め傷を縫い合わせる。

包帯を巻き、心臓の上にはスカラベを置く。黄金のマスクをかぶせる。

だそうです。

 

花魁と仲良くなる順序(たぶん江戸時代式)

茶屋を通すか直に郭に出かけて花魁を見立てる。

初回はまず結婚式のように盃を交わす。その後芸者を呼び遊ぶ。

2回めに通うことを「裏を返す」と言う。1回目と同じように芸者を呼んで遊ぶ。

3回目で「馴染み」になる。ご祝儀として「馴染み金」を払う。

専用のお膳と箸が用意され、それを用いて馴染みとなった祝の酒宴を行う。

それでようやく「床入り」となるが、野暮な客の場合はできない場合もあった。

これ以降は客は他の花魁と付き合うことはできなかった。

花魁はいいんかい。

 

まあ、どんなことでも知識が増えるのは良いことです。

 

知ってるようで知らないものの順序

知ってるようで知らないものの順序

 

 

「実践 日本人の英語」マーク・ピーターセン著

日本を訪れる外国人も増え、彼らが日本語を話す場面もよく目にするようになりましたが、驚くほど上手な人もたまには居るものの、多くは「片言の日本語」を話しています。

それと同じか、もっとひどい状況が我々が英語を使う時に起きているということで、著者のピーターセンさんは長らく日本で英語の指導をしていると、日本人特有の間違いがあることに気がついたそうです。

一応、英語で意思疎通ができる程度ではあっても、そのような片言の英語を使っていては相手の態度も違ってくるでしょう。

さらに、そのような英語は子供っぽい印象を与えてしまうことにもなりかねません。

ビジネスや学術関係で英語を使う場合はできるだけ避けたほうが良いのはもちろんです。

 

日本語で、「AのB」という表現は必ずしも所有を意味するとは限りません。

しかし、どうもこういった場合に英語にする時に、「A’s B」ないしは「B of A」としてしまいがちなのが日本人の英語だそうです。

「クラスメートの彩香ちゃん」を表す際に、ofなどは使えません。

これを言い換えれば「クラスメート である 彩香ちゃん」となるはずであり、英語で書く場合は「Ayaka, a classmate」と単にカンマで区切るのが最上です。

 

英語は「数」に関する感覚が厳密であると言えます。

単数と複数の違いというものは厳格に意識されており、冠詞もそれに応じて使い分ける必要があります。

これは嫌でも我慢してクリアしなければ片言英語からの脱却はできません。

ただし、moneyのように数えられない名詞の場合もあるために複雑で分かりにくいところです。

 

時制というのも日本人が引っかかりやすいところで、状態の動詞、動作の動詞の違いも絡むと相当難しいのは確かです。

やはり日本語ではあまり意識されない現在完了形、過去完了形の使い方というものが困難さを増しているようです。

さらに、「未来完了進行形」などというものもありますが、著者がこれまで指導してきた大学生の英作文では、未来完了進行形を使うべき場合でも間違いなく使われたと言う例が一つも無かったそうです。

 

日本語と英語の単語の間に、1対1の対応などはあるはずもないのですが、どうもそれがあるものと錯覚して使ってしまう単語も多いようです。

この代表的な例が「challenge」と「expect」で、日本人はどうしても「challenge=挑戦する」「expect=期待する」と考えがちですが、とんでもない間違いのようです。

challenge+目的語の場合は、「挑発する」「異議を唱える」と言う意味ですし、expect+目的語は「予期する」と言う意味であり「望ましい状態を期待する」という意味はありません。

著者は、この間違いがほとんどすべての日本人に行き渡っているのは何らかの理由があるのではと疑っています。

 

接続詞の使い方にも日本人特有の問題点があるようで、原因や理由を表すために使われる接続詞として、異常に「so」を使いたがると言うことがあるそうです。

著者はこれが日本語の「それで」と音の雰囲気も似ているからではないかと考えていますが、英語の場合のsoは注意を要する単語です。

日本人の使う「それで」という、因果関係を表すようでゆるやかな「成り行き」を表すような接続詞とは「so」は全く異なり、sinceやbecomeよりもさらに緊密な因果関係をもつ場合に使われるものです。

必然的なつながり、明確な因果関係を持つつながりの文章の場合のみに使うべきです。

 

日本語の悪い使い方に、「と思う」や「など」が頻発するということがあります。

少し表現をボカしたいところに使われることがあり、実際は私はそう思うというしっかりとした状況なしに、「と思う」が入ったり、例示がすべて終わっているのに最後に「など」を付けてしまう話し方をする人がよくいます。

これが英語に訳す時にそのまま出てしまい、「I think」を不自然に入れてしまったり、「and so on」を付けたりしてしまい、英語話者をイライラさせることが多いようです。

条件反射的にand so onを付けられる場合もあり、「一体いくつあるんだ」と疑惑を持たれます。

 

片言の英語でも話せないのに、その先の話を聞くとがっかりするばかりですが、これが現実なんでしょう。

 

実践 日本人の英語 (岩波新書)

実践 日本人の英語 (岩波新書)

 

 

「ノーベル賞の真実 いま明かされる選考の裏面史」アーリング・ノルビー著

ノーベル賞に日本人が選出されるかどうか、毎年大騒ぎをしていますが、その選考ということについては日本ではほとんど話題になることもないようです。

 

本書著者のノルビーさんはスウェーデンカロリンスカ研究所の教授を長く務め、ノーベル賞の生理学・医学賞の選考委員も20年にわたって務めたという方で、最近はノーベル賞についての著書も連続して書かれているということです。

 

ノーベル賞の選考についての記録は、ノーベル文書館というところに収められているのですが、その公開は受賞後50年間はできないそうです。

そのため、本書では生理学・医学賞の中でも1960年代に受賞した人々についての物語を記しています。

ただし、「裏面史」というほど「裏話」が披露されているということではないようです。

まあ、だいたいの所は噂としてはあったものが確認されたと言うところでしょうか。

 

この生理学・医学の分野では、当時は4つの大きな発展がありました。

ウイルス学、免疫学、タンパク質の立体構造、そして遺伝子としての核酸の働きの解明でした。

どれをとっても世界に大きな影響を与える学問分野なのですが、ノーベル賞は1年に1組にしか与えられないこととなっているので、その受賞の順番も重要なことになります。

 

オーストラリアのウイルス学者、フランク・バーネットがノーベル賞候補として初めて登場したのは、1948年でした。

しかし、なかなか受賞することができないまま毎年のように候補として挙げられていきます。

そのまま、受賞できないと言う人も多いのですが、彼は1960年になって初めて受賞することができました。

しかし、その受賞理由は専門のウイルスではなく、後天的免疫寛容に関する研究だったそうです。

 

1960年にバーネットと共に受賞したイギリス人、ピーター・メダワーは免疫学が専門でした。

当時は戦争の影響もあり、怪我を負った人に対しての移植手術というものが頻繁に行われたのですが、拒絶反応が起きて失敗するということが起きました。

これが、免疫反応によるということ、そしてそれを避ける方法の発展が続くわけです。

これなしでは、現在のように臓器移植の実施が日常的に行われるようにはなり得ませんでした。

この分野からは2011年までに7回ノーベル賞が選定され贈られています。

 

ただし、この分野での大きな発見でもノーベル賞が贈られなかった例もあり、例えばB細胞、T細胞の発見といった研究に対してもノーベル賞受賞に値すると評されながらも受賞には至っていません。他分野のより大きな受賞と重なったためで、不運としか言えないものでした。

 

この分野での当時のノーベル賞受賞の研究の中でも、もっとも有名なのは「DNAの二重らせん構造の解明」でしょう。

1962年に、ワトソン、クリック、ウィルキンズに贈られましたが、一般的には「ワトソン・クリック」の名で知られているのに、ウィルキンズと言う研究者も共同受賞しているのは意外かもしれません。

その研究の中での役割では、ロザリンド・フランクリンと言う女性研究者の方が大きなものだったようです。

しかし、フランクリンは1958年に亡くなってしまっていたために、死亡者には贈られないというノーベル賞規約によってその機会を失いました。

 

「もしもフランクリンが生きていたら」おそらくそのノーベル賞受賞者に連なっていたということです。

 

著者はこの本を若い研究者に読んでもらいたいそうです。

ノーベル賞受賞者という、雲の上のように感じられる存在でも研究途上では様々な悩みを感じ、それに立ち向かっていったということを知ってほしいということです。

 

ノーベル賞の真実: いま明かされる選考の裏面史

ノーベル賞の真実: いま明かされる選考の裏面史

 

 

「残念和食にもワケがある 写真で見るニッポンの食卓の今」岩村暢子著

家庭での食事の様子を写真に撮ってもらうという手法で、「食DRIVE」という活動を長く続けている、岩村さんの昨年末に出版された近著です。

 

少し前に同様の趣旨の本を読みましたが、その中でも最近の家庭の食事の様子に少なからぬショックを受けました。

sohujojo.hatenablog.com

和食がユネスコ無形文化遺産となり、世界的にも和食に注目が集まっていると言われていますが、この本で様子を見れば、そういった「和食」は家庭での食事から完全に姿を消そうとしていることが分かります。

 

それは単に魚の料理が難しくてできなくなったとか、漬物が好まれなくなったといった事象だけでなく、和食というものを支えてきた日本人の価値観、家族関係、はたらき方や暮らし方まで、すべてのものが変化してしまったからのようです。

 

「ご飯」を食べる量が激減しているとは言われていますが、それ以上に変わっているのが、「白いご飯」つまり炊いた白米を食べるという習慣が急激に失われつつあることです。

子供だけでなく、その親の世代(30-40代)でも白いご飯をそのまま食べるのが苦手と言う人達が増えています。

味が無いから食べたくないといって、フリカケや卵、キムチ等味の強いものを掛けなければ食べられないようです。

これは味覚の変化もありますが、それ以上に「食べ物をしっかり噛まなくなった」ためではないかと分析しています。

白いご飯は良く噛むことで甘みが出てきます。それをせずに丸呑みしていたら味がしないということになります。

 

煮物や魚料理などは学校の給食で初めて出会うと言う子どもたちも増えています。

家庭ではまったく作られなくなってしまったのは、主に調理をする主婦たちがその知識も食習慣も無くしてしまったからのようです。

給食ではじめての煮物に手がつけられず、「完食シール」を貰えなくて悔しがる子供に、なんとか食べろと言うのではなく「家庭では食べないようなものを出す学校給食を非難する」という母親も居るとか。

 

旬のものを時期を合わせて食べるというのも、和食の心と言われていますが、季節がむちゃくちゃになっているのも現代の家庭料理のようです。

鍋料理を夏に、そうめんや冷やしうどんを冬に食べるのも普通だとか。

その「鍋料理」も素材を選び季節を考えということはなく、市販の「鍋つゆの素」を使い好みの具を入れるだけで季節感の無いものとなってしまっています。

 

最近の家庭料理には子供や親、皆が好きなものしか出ないという傾向が強まっています。

「子供の嫌いな食べ物」を尋ねても、最近では煮物や切り干し大根などがあがることはなくなりました。

そもそも、そういったものは家庭で出されたこともないので、はじめから候補にもあがらないということです。

代わりに「嫌いな食べ物」であがってくるのが、最近では「果物」となっています。

味がはっきりしないと言って、メロンやスイカも嫌い、酸っぱいからといって、グレープフルーツやキウイも嫌い、さらにリンゴやナシ、柿などは「固いから嫌い」と言うそうです。

この「固いものは嫌い」と言う傾向は広く根強いもののようで、柔らかいものばかり食べたがるところから来ています。

 

「食DRIVE」の調査では、家庭の構成から答えてもらい、実際の料理の写真を添えてもらうのですが、1週間ほどの調査のなかで、1枚だけに「義母の食事」というものがあり、びっくりしたそうです。

他の食事の際には同居の義母とはまったく交差することなく別々に食事を作り、食べ、一回だけ一緒だったとか。

同居で台所や食卓も共通なのですが、時間差をつけて一緒にはならないようにしていたそうです。

それでいて、それほど仲が悪いということもないのですが、食事にはまったく共通するものもないのでそうなってしまったとか。

 

岩村さんのこのシリーズは、見る度に現在の日本の家庭の問題点に暗然とするばかりです。

社会が家庭から壊れていくというのがよく分かります。

 

 

「医者に上手にかかる法」高柳和江著

時々、昔買った本を再読してみるのですが、この本も1995年に第1刷発行と言うことですので、20年以上前の本です。

医者に上手にかかるにはというテーマで、海外での医療にも携わって帰国した高柳さんが日本の医療状況を書いていました。

 

20年前というと医療事情もかなり今とは違うようで、「インフォームドコンセント」がまだ新しい概念で馴染みがないので紹介しようというものです。

 

医療費もGDP比率6.8%ということで、アメリカの12%などと比べてもかなり低いという時期でした。

ちなみに、現在はGDP比11%、その後順調に?高騰してきたということが分かります。

 

当時は、私は今のことのように覚えていますが、医師の地位が非常に高く、医者の言うことには文句を言わずに従うというのが普通だったような時代です。

ガンの本人への告知も20%程度とか。

これはその後劇的に上昇し、2010年頃には90%以上に上がっているはずです。

そういえば、あの「本人には言えませんがご家族に」というのが普通だった時代というのが、ちょっと前だったんだというのが驚くほどです。

 

もちろん、セカンドオピニオンなどという言葉も使われていません。

 

著者の高柳さんは、医師就任後少し経った後にクウェートに渡りそこで医師として働いたそうです。

当時のクウェートはイギリス流の医療事情であり、医師と患者の関係も対等に近いというものでした。

それから帰国して日本の病院に入ったら、以前と同じ、医者は肘掛け椅子に座ってふんぞり返り、患者は丸椅子に縮こまって座る状況でした。

 

それじゃいけないだろうということで、せめて少しは患者側が上手に医者に物を言う言い方を教えましょうというのが本書です。

 

当時と現在では変わったところもあるかもしれませんが、基本的には変わっていないとも言えます。

その意味では読み返す意味はあったかもしれません。

 

なお、「痛みの医者への伝え方」は十分に参考になります。

ただ、「痛い痛い」では医者も分かりません。それがどのような部分でどのように痛むかをできるだけ正確に伝えることで、病気の正体がわかるということもあり得るようです。ここは覚えておいた方が良いようです。

 

医者に上手にかかる法―患者のための患者学 (ブルーバックス)

医者に上手にかかる法―患者のための患者学 (ブルーバックス)