爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「生命の数理」巌佐庸著

生物学や生命現象の中には、数理学的検討を加えるべき分野があるようです。

この本はそういった生命に関しての数理学(数式などでの解析)について、簡単に?説明しているものであり、生物学や生命科学の大学生、大学院生が学ぶ際の教科書として使えるように書かれています。

 

このような分野では最近はコンピューターシミュレーションの利用が進んでいますが、意外にその基礎となるべき数理学的教育が為されていないということでその用に充てられるようにといことです。

 

というわけで、かなり高度な内容となっています。

これが、田舎の市立図書館に置かれていたのはかなり場違いな印象を受けます。

 

このような数理学的解析の対象となる生命現象といってもかなり広い範囲にわたります。

細胞の増殖現象、周期的概日リズム、熱帯魚の縞の形成、樹木の一斉開花、結実現象、性の進化、発癌プロセス等々です。

 

内容を簡単にまとめるということはとてもできませんので、そちらには触れません。

ただ、このような生命現象に数理解析を施すということは、内容の厳密な評価のためには必要なことなのかもしれませんが、まあ知らなくても大体の理解はできるように思います。

 

一つだけ、普通の生物学ではあまり触れられないことが、性比の問題でした。

多くの生物では雌雄の比率が1:1であることが多いのですが、実はこれにはあまりはっきりとした理由がないそうです。

交配のためには雄はこれほど必要ではなく、ほんの少し居ればよいのだとか。

それ以外の雄は種としてはムダな資源を使ったことになるはずですが、それにも関わらず多数の雄が存在するのは別の意味がありそうです。

つまり、種の存続のために最適解を取ったわけでは無いということです。

雄はせいぜい1%居ればよいのだとか。それはそれでまた想像力を刺激する世界です。

 

生命の数理

生命の数理

 

 

「モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦」伊藤敏樹著

ジンギス汗が統一したモンゴル民族は圧倒的な軍事力で広大な地域を征服しました。

西方では中東やロシアまでを支配しましたが、現ポーランドレグニツァ(ワールシュタット)の戦いで西欧軍を大破したもののそれ以上の西進はせず停滞しました。

 

というのが、モンゴル帝国の膨張の一般的な理解であると思いますが、その詳細は知りませんでした。

ジンギス汗による世界帝国の樹立はアレクサンダー大王とも並ぶ偉業と言われますが、アレクサンダーが一代で成したのに対し、モンゴルはジンギス汗亡き後に息子や孫にまで引き継がれて実行されたのが特徴的です。

ジンギス汗自身はサマルカンド付近まで進んだ後はモンゴルに戻ったのですが、別働隊がロシア方面、ペルシャ方面と別れて進みました。

 

そのようなモンゴルの脅威を受けたのは、ヨーロッパだけでなく中東からエジプトにかけてのイスラム教国も同様でした。

ちょうどその頃にはいまだに西欧のキリスト教徒は十字軍を聖地に向けて進めているところであり、モンゴルをにらみながら一方では第7次十字軍を起こしていました。

モンゴルの侵攻も一段落し、イル汗国、キプチャク汗国が一定の地域を支配する段階となると、イスラム教国、フランス王国をはじめとする西欧、ローマ教皇、イタリア諸都市、ビザンツなどが入り乱れて争うことになります。

 

キプチャク汗国はキリスト教国を征服したために、その王妃にキリスト教徒を迎え、イル汗国ではイスラム教徒の王妃を迎えると言った具合に、縁戚関係もできるとさらにその縁戚からの影響も受けるようになり、モンゴルと西欧の協力を求めるという勢力も出てくるようになります。

 

モンゴル側はあくまでも軍事力で西欧侵攻と言うことも唱えていますが、実際はそのような力も既に無く、均衡した勢力の争いとなってしまいます。

 

このような三つ巴の勢力争いの時代というものは、西欧にとってはその後のルネサンスを呼ぶようなものであったのかもしれません。

イスラムでもバグダットのカリフがモンゴルに滅ぼされてしまったことで、新興勢力の台頭を許したという意味があったようです。

また、キリスト教イスラム教以外に仏教という異教徒が居たということが大きく意識されたということもその後に影響を残しました。

 

モンゴル侵攻がなければ本当に中世の終焉がこなかったかどうかは分かりませんが、それを早めたのかもしれません。

 

 

「『課題先進国』日本 キャッチアップからフロントランナーへ」小宮山宏著

著者の小宮山さんは化学工学が専門ですが、東京大学の工学部長から副学長、そして本書出版時の2007年は東京大学総長の職にあったという方です。

それだけで反発を覚える人も居るかもしれません。

しかし、まあ我慢して読み進めました。

 

日本は様々な課題が山積みで、閉塞感がそこら中に漂っています。(2007年の話です)

資源エネルギー問題、環境問題、高齢少子化、教育問題等々ですが、これらは世界の各国でも今は問題化していなくても必ず今後大きな問題となってくると考えられます。

つまり、現在は日本でもっとも重い課題となっているように見えても、いずれは世界中に広がるということです。

 

それならば、この時点でなんとかして日本がこれらの課題を解決していけば、いずれは世界の問題を解決することができるのではないかと言うのが本書主題です。

 

これまでの歴史でも、先進国というものは課題も最初に襲ってくるものでした。イギリスでもフランスでも世界に先駆けて課題がのしかかり、それをクリアすることで先進国となりました。

日本でもそれが可能であると言うことです。

 

ただし、そのために何をすべきかというと、本書ではあくまでも「技術開発頼り」です。

「日本車は省エネで低公害」という文章がその意識を如実に表しています。

来るべき、エネルギー供給減少の事態にも、日本の技術でエネルギー効率を現在の3倍に引き上げ、自然エネルギーを現在の2倍に引き上げれば解決可能としています。

 

科学技術主導の時代を引っ張ってきた技術者、科学者にありがちな技術開発万能の思考にどっぷりと浸かりきっているようです。

「できないかもしれない」という恐れはまったくないのでしょう。

 

「輸送コストは原理的にはゼロ」というトンデモ発言も見ものです。

位置エネルギーの増減がないために、重力に逆らわない移動にはエネルギーが掛からないという、一見科学の原理に則ったように見えるのですが、実は実施不可能な話を持ち出します。

これはもちろん、「摩擦がなければ」という条件が必要です。

石油を中東からタンカーで持ってくることを挙げていますが、船舶輸送が非常にエネルギー効率が良いことは確かですが、それをトラック輸送を同列に論じるわけには行きません。

バイオマス発電のために細々とトラック輸送をするなどというのは不可能でしょう。

 

科学技術の限界は越えられると言う信念のようなものがあるようで、「専門家はたこつぼに埋没してはならない、社会はたこつぼに埋没した専門家に相談してはならない。その問題に集中しつつも基礎に戻って考えて、技術の大きな動向や過去の歴史、今後起こることを見通すことができる、そういった専門家に相談する必要がある」と書いています。

御自分がそういった見通す事ができる専門家であるということに自信を持っているようです。

 

教育改革については、当時御自分が東大総長であった関係か、そちらの方面に偏った議論のみでした。

 

まあ、ちょっと読んだだけ時間のムダだったかもしれません。

 

「課題先進国」日本―キャッチアップからフロントランナーへ

「課題先進国」日本―キャッチアップからフロントランナーへ

 

 

「そして、アメリカは消える」落合信彦著

少し前になりますが、さまざまなところで名前を聞いた国際ジャーナリストとして活躍していた落合信彦さんの2016年、トランプを選んだアメリカ大統領選最中の著書です。

 

しかし、この本の文章のあまりにも荒っぽいことには驚きました。

オバマを始めとしてアメリカ歴代の大統領や、プーチン習近平を激しい言葉で罵倒しています。

まあ、プーチン習近平はそれも仕方ないことかもしれませんが、アメリカ大統領を罵倒する理由としては、適切な時期に軍事力行使をして世界の警察官たるアメリカの役割を怠ってテロの蔓延を招いたという、いささか時代遅れの価値観から来たもののようです。

 

落合さんも現在76歳、本書出版時は75歳ですから年齢から来る焦りのようなものがあるのかもしれません。

 

かつては世界最先端のジャーナリストとして各国の要人にも直接インタビューを行っていたという方ですが、昔の価値観のまま年老いたということでしょう。

 

ジョン・F・ケネディロバート・ケネディ兄弟の暗殺は、効果的な軍縮を進めようとしたケネディが邪魔となった軍産複合体が手を回して行ったと断定しています。

ベトナム戦争遂行を妨げるためにCIAなどをコントロールしようとしたケネディに対し危機感を覚えたCIAと軍部、軍事産業が暗殺を実行したそうです。

 

その後の11人の大統領はほぼ全部否定しています。

その中でレーガンだけは評価していますが、リビア爆撃の決断などを称賛すると言った内容です。

 

書名を「アメリカは消える」としていますが、この理由を取り違えているようです。

著者の唱えるような、際限ない世界の警察官としての役割を果たしていくことが不可能となったこと事態が「アメリカが消える」理由でしょう。

それを、大統領の不決断のせいにしたところで仕方のないことです。

 

本書出版の時点ではまだトランプ大統領誕生は見えていません。

トランプは金儲けしか頭にない不適格者だという判断ですが、それに間違いはないものの大統領就任からのやり口は著者のお気に召すものでしょうか。

不法移民や難民を忌み嫌っている著者がトランプの言い分を聞いたら評価を変えそうです。

 

というわけで、書名に惹かれて読み出した本ですが、毒気にあてられて辟易しました。

 

そして、アメリカは消える

そして、アメリカは消える

 

 

「煩悩 百八つの怒り・欲望・悩みはこんなにも奥深い!」松原哲明著

大晦日の除夜の鐘は煩悩の数だけ、108回つかれるということはよく知られていることでしょうが、その「煩悩」というものはどういうものかということは、意外に知られていないのではないでしょうか。

 

そういった煩悩の数々、臨済宗の僧侶にして大学教授も務められている著者の松原さんが、ご自身の経験や見聞も交えながら一つ一つ解説していきます。

 

108の煩悩がどういうものであるかということも諸説あるようです。

どれが正しい説かということも無いということですが、6種の根本煩悩に付随する随煩悩を数えて108にするという説が基本ということです。

根本煩悩には、貪(とん)瞋(しん)癡(ち)慢(まん)疑(ぎ)見(けん)の6種があります。

貪は欲しいと思うものに対する強い欲求で、それにまつわる数々の煩悩もあります。

瞋は怒りの炎で、様々なものに対する怒りが溢れてきます。

癡は本当のことを知らずに道に迷うばかり。

慢は色々な面で驕り高ぶること。

疑はこころに浮かぶ様々な疑い。

見は真実と思って間違った見方をしてしまうこと。

 

著者も禅宗の僧として修行をし、それを広く講演活動として話して回っているのですが、まだまだ煩悩と別れられないと自覚しているそうです。

ご自身はすぐにカッとする性格であることを自覚していますが、講演などでは「ブッダの教えは心のかわかないこと」などといかにも布教師らしいことを言ってしまうそうです。

自分自身「二重人格」ではないかと思いつつも話を続けるそうです。

 

著者の人柄がよくわかるような挿話で、本書主題の煩悩というものも分かりやすく思えてきます。

 

煩悩―百八つの怒り・欲望・悩みはこんなにも奥深い!

煩悩―百八つの怒り・欲望・悩みはこんなにも奥深い!

 

 

「イランカラプテ アイヌ民族を知っていますか?」アイヌ民族に関する人権教育の会監修 秋辺日出男他著

本書副題は「先住権・文化継承・差別の問題」とあります。

アイヌ民族が特に北海道においての先住民族であるということは確認されていますが、政府はそれをどうこうするという実際的な政策を取ることはなく、放置されています。

 

アイヌ民族と名乗っているのは2万人程度ということですが、実際には20万人以上居るのではないかと考えられています。しかし、これまでの厳しい差別の状況からアイヌであることを隠して居る人がほとんどのようです。

 

本書はこういった問題について活動している方々が、所々で講演した内容をまとめたものです。

内容は様々ですが、アイヌ民族の先住権とはなにかということや、北海道におけるアイヌ民族や文化についての教育、アイヌ文化の伝承、いまだに残る差別といったことが語られています。

 

かつては、東日本各地にまでアイヌ民族が住んでいたと見られますが、近い過去には北海道、サハリン南部、千島列島に広く住んでいた先住民族です。

日本とロシアが進出してアイヌの土地を奪いました。

1980年代になり、国連では全世界で起きた先住民族に対する侵略について、反省するという動きが見られるようになりました。

日本は長らくアイヌ先住民族と認めることがありませんでしたが、ようやく1997年になりアイヌ文化を守ることのみが認められ、アイヌ文化振興法を作りました。

そして、2008年になってようやく国会で「アイヌ民族先住民族とすることを求める国会決議」が採択されました。

この決議の変な名前にも、日本政府のおかしな姿勢が現れています。(何で”求める”?)

しかし、その決議のあともこれと言った施策をするわけでもなく、放置されています。

 

明治以降、北海道開拓と称して多くの日本人が進出し、肥沃な大地を我がものとしてしまいました。

一方、アイヌにはその残った痩せ地を与え、それまで自由に狩猟してきた動物や鮭を捕ることを禁じました。主要な食糧だった鮭が食べられなくなり餓死したアイヌも多かったそうです。

そして日本の教育の中に取り込んだアイヌ達に対しても差別が激しかったため、アイヌであることをできるだけ隠すということも生じてしまいました。そのため、アイヌ文化というものに全く触れないままのアイヌ人も多いようです。

いまだにアイヌ差別を公言する日本人も多いようで、北海道でほそぼそと実施されている学校でのアイヌ文化紹介で、子どもたちはそれに触れても家に帰って親に話すと「そんなことは話すな」と言われることがあるとか。

さらに、アイヌ人の活動に若干の補助金が出ただけでコソコソと批判する人間も居るようです。

 

ヘイトスピーチというものに対する批判というものもありますが、それが在日韓国・朝鮮人に対するものばかりのような思い違いもあります。

アイヌに対するヘイトスピーチというものも大きな問題なのですが、それが無視されてヘイトスピーチ規制法(2016年)は正式名称を「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取り組みの推進に関する法律」にされてしまいました。

「本邦外出身者」では「アイヌ民族」が入ってきません。

その認識が国会議員には無かったのでしょう。

 

なお、書名の「イランカラプテ」とはアイヌ語の挨拶の言葉で「あなたの心にそっとふれさせてください」という意味だそうです。

イランカラプテ アイヌ民族を知っていますか?――先住権・文化継承・差別の問題

イランカラプテ アイヌ民族を知っていますか?――先住権・文化継承・差別の問題

 

 人種差別の話は、アメリカの黒人だけではないということがよくわかる本です。

 

 

「細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯」安延苑著

明智光秀の娘として生まれ、細川忠興の妻となり、キリスト教徒となって関ヶ原の戦いの前に石田三成に人質とされようとして壮絶な死を遂げた、細川ガラシャ

その名は日本ばかりでなくヨーロッパでも知られているのですが、実際の彼女の人生がどのようなものであったのか、意外に知られていないようです。

 

戦国時代の女性は結婚後でも生家の名字と名前で呼ばれるのが普通であったので、本来は「明智玉」と呼ばれていたはずですが、なぜか婚家の細川に洗礼名のガラシャを付けて呼ばれることが多いようです。

 

ガラシャが生まれたのは1563年、父の光秀はまだ信長に仕える前でした。

その後、光秀は信長に臣従しどんどんと頭角を表して行きます。

細川藤孝足利将軍家に仕えていたものの、光秀に少し遅れて信長に仕えるようになり、光秀と共に働くようになります。

そして、細川藤孝の嫡男忠興と、光秀の娘玉とが結婚するのも自然な成り行きでした。

 

忠興とガラシャは共に数え16歳で結婚します。

長女の長(ちょう)、長男の忠隆と続けて子供が生まれます。

 

しかし、ガラシャが20歳の1582年、父の光秀が本能寺の変で主君織田信長を討ち果たすと言うことになりました。

光秀は当然ながら細川藤孝、忠興父子の助勢を当てにしていたのですが、彼らはその求めに応じないまま、秀吉により破られクーデターは失敗に終わります。

 

反逆者の娘であるガラシャは、細川家からも離縁されてしまうのですが、実際は細川は彼女を領地の丹後の日本海沿いの味土野というところに幽閉します。

これは実はほとぼりが冷めるまでの間のことだけであり、その後は秀吉の許しを受けて大阪の細川屋敷に引き取るということになりました。

子供も続けて生まれ、正室として扱われていたようです。

 

その頃に周囲の侍女などが相次いでキリスト教に入信し、ガラシャ自身もその希望を持つようになります。

しかし、忠興はまったくそれを認めようとしなかったために、隠れて事を運ぼうとします。

ガラシャが教会を訪れたのは生涯でただ一度。1587年3月29日であったそうです。

その時、大阪のイエズス会教会に居たのはセスペデスと言うスペイン人の司祭でした。

位の高いオルガンティーノなどの司祭はたまたま外出しており、セスペデス一人が残っていました。

しかし、セスペデスは日本語がそれほど上手では無かったために直接は語らずに日本人修道士に対応させたそうです。

ガラシャは名前は明らかにしなかったものの、高貴の夫人であることは明白であり、帰りに付けていってようやく細川の夫人ということがわかったそうです。

 

この時はちょうど忠興が秀吉に従い九州征伐に参戦していた時期であったのですが、それ以降はガラシャの外出も不可能となりました。

洗礼を受けなければキリスト教徒となることはできないのですが、そのための教会訪問もできない状況でした。

そのため、宣教師たちは策をめぐらし、ガラシャの侍女のキリシタンを使って洗礼を伝えさせると言う手を使ってガラシャの入信を果たしました。

ガラシャと言う洗礼名はちょっとめずらしいものですが、これは彼女の周囲の侍女などが先に入信してしまい、通常の洗礼名はすべて使われてしまったために、考えて選んだもののようです。

ラテン語のグラティア、スペイン語のグラシアから来るもので、「恩寵、恩恵」という意味ですが、同時に「玉、珠」とも通じる意味があり、彼女の本名とも意味が通じるというものでした。

 

大阪の屋敷から一歩も出られないとはいえ、そこで十数年の穏やかな生活を送っていたのですが、徳川と豊臣の争いが激化し大坂に住む大名家族もそれに巻き込まれていきます。

忠興は徳川に味方し共に戦っていたのですが、家族は大坂に残されたままでした。

関ヶ原の戦いが近づき、石田三成は大名の家族を人質として捕らえようとします。

しかし、忠興が参戦する前に言い残したのは、人質となるようならば自害せよと言う命令でした。

石田三成がまず捕らえようとしたのが細川ガラシャでした。

軍勢を向かわせたところ、細川家は抵抗し、その間にガラシャは自害、屋敷には火をかけ遺体を焼くというのが通例でしたが、キリスト教徒は自殺を絶対にできないということになっています。

そのため、通説では警護係であった小笠原少斎がガラシャを切ったということになっていますが、キリスト教の思想ではこのように自ら手を下さなくても依頼した場合は自殺に含まれると言うことになっています。

ガラシャはこのような事態になる以前からこれを予測し、どうすればよいかということをイエズス会宣教師に手紙で尋ねていたそうです。

イエズス会側としても神学者の意見も聞き手を尽くしてこれが自殺には当たらないという解釈をできるということにしたのですが、その辺の議論はやはり取ってつけたような印象がします。

 

細川忠興は妻や家臣がこのようになることを半ば予測しながら脱出等の策は取らず、この事態を招いたということで、現代の感覚からすれば冷酷のようにも見えますが、当時家をまず守ると言う点から言えば仕方のないことであったのかもしれません。

長男の忠隆の妻はガラシャと共に居たのですが、三成の軍勢が寄せる前に脱出してしまいました。そのためばかりとは分からないのですが、忠隆はその後廃嫡され、三男の忠利が家督を継ぐことになってしまいます。

当時の武士社会の道徳観としてはこのようなものだったのでしょう。

しかし、忠興はガラシャ没後1年経った時に、一周忌として京都の教会でキリスト教式のミサを行いました。自身はキリスト教とは距離を置いていましたが、妻の信仰を大切にと思っていたようです。

 

 細川氏は私の住む熊本のかつての領主であり、細川忠興(三斎)は隠居後に八代城に暮らしたと言う人です。その妻ガラシャの生涯と言うことで、興味深く読むことができました。