爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「戦後日本経済史」野口悠紀雄著

第2次世界大戦で敗れた日本は、占領軍によって農地改革や財閥解体などの民主化改革を受け、軍備増強ではなく経済成長に集中することができたために、戦後の復興と高度経済成長を果たすことができたというのが、標準的な見解でしょう。

 

しかし、大蔵官僚として内情まで通じている著者からみると、それとは全く違う姿が見えてきます。

それは、「戦後日本経済は、戦時下に確立された経済制度の上に築かれた」というものです。

特に、「間接金融体制」というものが高度成長期までを支えてきたのですが、この体制は実は戦時中に取り入れられたものだったのです。

(間接金融体制とは、企業が資本市場からでなく、銀行からの借り入れにより投資資金を調達する仕組み)

 

そして、著者がさらに強調したいのは、そのような歴史的な経緯もさることながら、その体制がバブルを引き起こしそして崩壊までも起こしてしまったのは、そのような軍隊型の体制がまったく時代錯誤となったからであり、バブル崩壊後の長期停滞もそのためであるといこと、そして現在のアベノミクスもその幻影を追いかけるだけだということです。

 

昭和20年8月15日に日本は敗戦を受け入れましたが、それで多くの国民は茫然自失したものの、政府の多くの官庁はそれどころか自らの生き残りのためにあらゆる努力を始めました。

大日本帝国の政府の中でも、内務省などは消滅しましたが、大蔵省、通産省日本銀行といった経済の主力となる勢力は、占領軍に上手く取り入り存続を果たしました。

占領政策として行われたように見えるものの多くが実は日本側の官僚の意向だったということです。

著者は1964年に大蔵省に入省していますが、その時の事務次官は「昭和12年入省組」、以下局長、課長、係長まで延々と連続して入省した人々が終戦前と同様に執務していたということです。

 

旧日本の財閥などの資産保有階層、地主階級といった人々は、占領軍による財閥解体、農地解放などの施策で没落したと思われていますが、実はこういった施策はすでに戦時中に軍部や改革派官僚によって準備され、敗戦後に占領軍のお墨付きを得て実施に移されただけのものだったのです。

戦前の日本の都市住民は、借地借家に住むのが一般的でした。これも借地借家法の改訂により借家人の権利が拡充され、事実上借家人の所有になってしまうのですが、この借地借家法改訂も実は、終戦前の1941年のことだったのです。

 

こういったことが可能だったのは、ほとんどアメリカ軍であった占領軍には、日本の出身者が居らず、日本の内情を知るものが居なかったからです。

占領軍の認識はルース・ベネディクトの「菊と刀」程度のものしかありませんでした。

アメリカ人の中には、日本語の文章を読める者も少なく、日本の役人のやりたい放題だったようです。

こういった状況は、政府高官がアメリカに亡命し占領政策実行時にはアメリカの有力な助けとなったドイツの状況とは全く異なるものでした。

 

このようにして、日本政府官僚が占領軍を騙しながら確立したのが「戦後レジーム」です。

これは戦前に彼ら改革派官僚が果たそうとしてできなかった「統制経済」の確立であり、「日本型社会主義」とも言えるものでした。

これを作ったのは岸信介を始めとする人々なのですが、その孫の安倍晋三はそれを知ってか知らずか「戦後レジームからの脱却」と言っています。

いずれにせよ、ちゃんとした知識が欠けているのは間違いなさそうです。

 

戦後復興を果たした日本企業は、その後高度経済成長に入ります。

これを支えたのは、電機産業や自動車産業など、実にかつての「戦時企業」が看板だけ替えた重化学工業でした。

それらの企業を支えているのも、戦時制度そのままと言うべき労使協調でしたし、社会制度、政治制度もすべてそのような基本の上に出来上がっていたものでした。

 

 順調に発展を続けてきたように見える日本経済ですが、1960年代には欧米諸国から自由化を求める声が強くなります。

輸入品の自由化率を上げることや、通貨交換性の回復、国内市場開放が求められます。

まだまだ日本の産業は保護が必要と考える政府は小出しに対応をしていくことになりますが、すでに製造業側は保護は不要という認識になっていました。

 

その当時に政治の主導権を握ろうとしていたのが田中角栄でした。

それまでの輸出企業への融資中心の投資から、地方への公共事業分配による資金還流に向かいました。

この当時の日本の社会は、戦前のような財閥と資本家が支配する資本主義社会ではなく、資本家のいない平等社会と言えるものでした。

大企業は労使協調が行き渡り、中小企業には様々な政策融資が流され、農家は食糧管理法(これも戦時立法です)によって生産性向上無くして補助金がもらえるようになりました。

これは、当時のソ連や中国の実情などはるかに超える社会主義社会だったのかもしれません。

 

しかし、徐々にアメリカ社会の実情も知られるようになってくると、日本の経済規模の割に庶民の生活は劣悪であるという認識が高まってきます。

1973年に、著者が「国家的ねずみ講」と呼ぶ年金制度が整備されました。

その当時はまだ高齢者の比率が低かったために、年金給付が多い割に負担が少ない構造が問題となることはありませんでした。

しかし、その後の高齢化によってあっという間に財政への負担が急増します。

 

さらに、1970年代には所得税の大減税が行われます。

この当時にはサラリーマンの徴税に対する不満が激しくなりました。

訴訟も提起され、総評も必要経費を求める運動を始めるなどの動きに、田中首相は大幅な所得控除の引き上げを実施しました。

田中角栄は大蔵省をも強く支配していたために、こういった施策にも反対を許さずに突き進み、結果的に政府財政をガタガタにしてしまいました。

 

ちょうどこの時に、中東戦争が起こりそれに対して産油国が石油供給をストップするという、石油ショックが起きました。

これにより、石油価格の急騰が発生、石油を安く買い使うことで産業を動かしていた先進国に大打撃が発生します。

この石油ショックに最も速やかに適切な対応をしたのが日本でした。それは、この後のバブル経済につながります。

 

バブル経済の中では、株式市場の活性化が起きました。

どの企業でも財務担当者は株投資を始めとする「財テク」なるものの狂奔することになります。

そして、これは実は戦時中から続いており、しかも戦後復興と高度経済成長を成し遂げた銀行中心の金融体制からの脱却にほかなりませんでした。

この結果、銀行はそれまでの企業に対して資金を供与し売上を上げていく経営ができなくなり、資金運用難に陥りました。

「銀行が要らなくなった」と言える状況になったのです。

しかし、銀行は生き延びようとしました。これがバブルの弊害を大きくしました。

企業向けの融資から、不動産向けや中小企業融資などにのめりこんだのです。

これらが不動産バブルを激化させ、結果として不良債権の山を築きました。

 

このように、バブルまでの日本経済は「戦時体制」のままに運営され、それがちょうど時代にマッチして成功しました。

しかし、その後の世界はそのような戦時体制ではまったく適応できないものとなっています。

にもかかわらず、相変わらずかつての高度成長に幻想を抱き、バブル再燃を願う人々が多いようです。

現在の政権もまさにその通りです。

 

戦後経済史

戦後経済史

 
戦後日本経済史 (新潮選書)

戦後日本経済史 (新潮選書)

 

入り組んでいて魔物のような印象があった戦後経済ですが、非常に分かりやすく整理されていると感じました。

 

 

サンマ漁をめぐる話題 中国が悪者で日本の主張する漁獲制限に従わないの?

サンマの不漁と、その資源管理をめぐり、国際会議で日本と中国が対立したというニュースが流れています。

www.nikkei.comこれだけ見れば、資源が減っているのに制限に反対する中国の方が悪者というイメージですが、実はまったく違うのは薄々は分かりますね。

 

東京海洋大学の勝川先生が、分かりやすい解説を書いています。

www.nhk.or.jp

サンマのような回遊魚の場合は資源量の正確な把握が難しいようですが、少なくとも現在の日本のサンマ不漁は資源量減少とは言えないようです。

ただし、日本の漁船も大型化し外洋まで出ていって大量捕獲すればやはり資源枯渇につながるでしょう。

 

その他にも、ツイッターで今回の事件について色々と書いていらっしゃいます。

興味があったらどうぞ。「勝川俊雄」で。

「島津家の戦争」米窪明美著

薩摩を支配してきた島津家は、鎌倉時代初期に入って以来一度も離れること無く続きました。

その薩摩の島津宗家の四代当主、島津忠宗の六男、資忠が足利将軍家から日向国に所領を与えられたことにより、都城島津家という島津の分家が成立しました。

こちらも、明治に至るまで都城一帯を支配し続けました。

 

島津本家は数度の戦乱で資料も焼失したものの、都城島津家は西南戦争でも戦火を受けることはなく、文書記録も残りました。

都城島津家の前当主島津久厚氏は学習院大学で務めておられ、ちょうどその頃に秘書として著者の米窪さんと出会い、その縁で「都城島津家日誌」を読む機会を得て、その後これを基に本を書く許可を島津氏より貰い、執筆をしたそうです。

 

2004年、都城島津家から都城市に約1万点もの歴史資料が寄贈されました。

その中に「琉球国王宛朝鮮国王国書」なるものが含まれており、大きな論争を引き起こしました。

差出人は朝鮮国王の燕山君、受取人は琉球尚真王、内容は漂着した琉球の船員を送り返すというものでした。

朝鮮と琉球の間の国書がなぜ都城にあるのか、もしかしたら偽物か、模造品かといろいろな説が飛び交いましたが、結局その形式、内容から本物と確認されました。

そして、それが都城にあることが都城島津家が琉球貿易にも深く関わっていたことの現れということでした。

都城島津家は、現在の宮崎県都城市が本拠ですが、戦国時代後期には武功を立てて内之浦から志布志までの一帯を島津宗家より与えられました。

そのために、琉球貿易にも関わるようになり、その関係で朝鮮王国書を手に入れることにもなったようです。

 

秀吉の九州征伐をも辛くも逃れた島津は本領をほとんど安堵され、さらに関が原の戦いで西軍につくも徳川も存続を認めほぼ旧領を領有し続けました。都城も同様でした。

そのためか、領国内の体制も他の藩とは異なり、中世の雰囲気を残すものだったようです。

明治時代になったすぐの調査では、士族は全国平均で人口の約5%というものだったのですが、これが薩摩では25%に達しました。

実に、全国の士族の10人に1人は薩摩に居たのです。

しかも、その中で都城は特に士族が多く、42%という数字でした。半分は士族という状態だったのです。

もちろん、他の藩では士族と農民は完全に区切られ、士族は俸禄を受けるサラリーマンと化していたのですが、島津では戦国時代以前の状態、つまり武士も農地を所有し、平時は自らそれを耕し、戦時には闘うという体制をそのまま引き継いでいたのです。

 

幕末から維新に至る時期にも、都城島津家の人々は鹿児島同様精力的に動きました。

精忠組という、血気にはやる若者たちも都城精忠組として出撃し、倒幕の戦場で戦ったそうです。

 

生麦事件を原因としてイギリスと薩摩の間に薩英戦争が勃発し、鹿児島はあっという間に焼け野原となったものの、イギリス艦隊にもかなりの損害を与えたので、和平となりました。

すると、薩摩は和平の条件として賠償金等は払うものの、イギリスの軍艦を売ってくれということを言い出したそうです。

あまりのことに、イギリスの交渉担当者も唖然としたとか。

 

薩摩を始め倒幕派の諸藩の活躍で、明治維新は成し遂げられました。

しかし、薩摩でも西郷や大久保などごく一部のものが政府に加わったのみで、多くの士族は打ち捨てられたようになってしまいます。

廃藩置県で、従来の領主は一応知藩事として就任をしますが、それもすぐに中央からの官僚に交代させられ、島津の数百年に渡る支配も終わらされます。

しかも、長州や土佐はそれぞれ山口県高知県と一つの大きな県にまとめられましたが、島津支配地は鹿児島、美々津、都城と三分割されてしまいました。これには島津側や家来たちは非常に不満を持ったようです。

 

さらに、秩禄処分で、士族の俸禄はわずかな債券で精算されますが、鹿児島ではそこには他とは大差がある状況がありました。

 

島津家では中世以来の武士と農民の一体化が続いており、江戸時代では他に例を見ない土地の私有制とも言える状況でした。

しかし、秩禄処分により、武士の土地所有は否定されると、薩摩では大きな反発が起きます。

全国各地で起きた士族の反乱が、薩摩では西南戦争にまで拡大するのも士族たちのこの点に関しての不満が非常に強かったからのようです。

 

西南戦争の際、都城薩軍の敗走路に近く政府側が刺激すれば町も無事では済まなかったのですが、なんとか迂回して敗走させました。

 

明治に入っても、都城島津家の当主島津久家は軍人となり、日露戦争にも陸軍で戦場に立ち戦ったようです。

さらに、その子の久厚の代には第2次世界大戦が終わり、都城島津家は土地も失いわずかな山林を残すのみとなりました。

 

江戸時代の殿様の子孫が居るというところはあちこちにありますが、鎌倉時代にさかのぼり領主の家系が続いているというのはすごいところです。

島津という家の持つ意味を再認識できました。

 

島津家の戦争

島津家の戦争

 

 

米朝会談の本当のところは、トランプの心の底にあるものは、副島隆彦さんの学問道場より

著書も一冊読ませていただいたことのある、評論家の副島隆彦さんのブログ「学問道場」にはなかなか興味深い記述がありますが、今回の指摘は非常に考えさせられるものでした。

 

副島隆彦(そえじまたかひこ)の学問道場 - 重たい掲示板

学問道場の中の「重たい掲示板」というところにある、6月13日付けの記事です。

 

[2327]6.12米朝会談 の真実。 日本だけが敗北した。

このように題された、副島さん御本人の投稿分ですが、6月12日に全世界の注目を集めて行われた米朝首脳会談で、実際に決まったのは次のことであるという観測です。

 

トランプは北朝鮮の非核化を決めたと称していますが、実際に決まったのは「ICBMは持たない」ということだけであり、核武装を解除するということはウヤムヤにされているのではないかということです。

 

すなわち、「アメリカに届かなければどうでも良い」ということであり、短中距離のミサイルは従来どおりとすれば、日本をはじめとする近隣国は相変わらず核ミサイルの脅威にさらされるということです。

 

その他の部分でも、トランプは金正恩に良いように踊らされたとしています。完全な外交敗北なのですが、虚勢を張っています。

そして、そのトランプのアメリカよりさらに最悪なのが、トランプに擦り寄りついていくだけの日本であるとしています。

金をむしり取られるのが、アメリカばかりでなく今後は北朝鮮にもということでしょう。

「滅びゆく 日本の方言」佐藤亮一著

本の題名から受けた印象では、地域間の交流の発達やテレビなどの影響で方言が無くなっていくことについて、論じらている本かと思ったのですが、それは巻末のごく一部のみで、ほとんどの部分はこれまでの研究の成果として、方言の全国分布図を説明するといったものでした。

 

まあ、かつての方言研究の結果を今一度残しておきたいということなのかもしれませんが、刻一刻変わっていってしまっている現在の状況はあまり反映はされていません。

 

そんなわけで、巻末の「方言の現在」というところを紹介しておきます。

 

日本人の大部分が、「方言はなくなりつつある」という意識を持つのではないでしょうか。

かつて、著者の学生時代の昭和30年代に、地方に方言研究の調査に出かけると、「なぜこんな言葉を調査するのか」と疑問を持たれたのですが、最近では調査に行くとお年寄りが進んで応じてくれるようになり「自分たちの言葉をぜひ後世に残してほしい」と言うそうです。

もはや、若い世代には通じなくなっているという自覚があるのでしょう。

 

現在では、どの地方に出かけても若干なまりの入った「地方共通語」とでも言うべき言葉が聞こえてきます。

かつては、老人の話す言葉は別の地方から来た人にはまったく通じないということがあったのですが、そういうことはなくなりました。

しかし、地方の人々が皆共通語を話しているかというとそうではなく、共通語も話せるが仲間内では方言を話すということは残っています。

ただし、その方言も、従来の伝統的なものとは異なり段々と形を変えています。

他の地域の情報も入りやすくなり、その影響で伝統的方言はどんどんと変えられていきます。

方言がこのまま無くなっていくという見方はやはり一方的なものであり、そうでもないと考えられます。

ただし、方言の機能というものは従来のものとはかなり違ってきました。

「アクセサリー化した方言」といったものになっています。

方言で「遊ぶ」ということもあります。

こういった実態は、方言研究者ほど見えていないのかもしれません。

 

本書の大部分を占める「方言の全国分布」から少しだけ。

言葉の指す対象が、全国どこに行っても同一とは限りません。

「もみ殻」と「糠」は、昔はどこへ行っても「ぬか」と呼んでいたそうです。

それが、いつの頃からかもみ殻の方だけ形が変わり分化しました。

 

「カマキリ」と「トカゲ」も、まったく違う生物ですが、かつては関東地方の一部では意味が逆転していたそうです。

方言型の「カマギッチョ」が進化した時に逆の意味に進んだとか。

 

方言ばかりの九州に住んでいると、「方言の衰退」などということが本当に起きるのかと思いますが、確かに初めてこちらに来た40年前と比べると現在は皆の話す言葉が違ってきたことを実感します。

まあ、徐々に変わっているのでしょう。

 

滅びゆく日本の方言

滅びゆく日本の方言

 

 

”賀茂川耕助のブログ”を読んで No.1223 変わる米国の覇権体制

アメリカが握っていた世界の覇権というものを、自ら手放そうとしているとする意見を述べている人も目立ちますが、今回の賀茂川耕助さんのブログでもそう主張しています。

kamogawakosuke.info

意外に思う方も居るかもしれませんが、トランプ大統領が「アメリカ第一主義」を声高に唱えること自体、これまでのアメリカの覇権体制が変化していることを示しています。

 

強力な軍事力が他国をはるかに凌駕していることには代わりはありませんが、かつては世界の基軸通貨として揺るぎない地位を占めていたドルも昔の面影はありません。

 

軍事力を持っていてもそれを動かすだけの軍事費が乏しいことも明らかになりました。

両面作戦は不可能と言わんばかりに、イランに火種を持ち込む一方では北朝鮮は手打ち式です。

その割に、中国ロシアを標的とするミサイルシステムを日本に買わせることには変わりはないようです。

 

世界の体制が変わろうとしているにも関わらず、トランプについていくことだけを求めている日本の首相の姿勢が危ういのも賀茂川さんの指摘どおりです。

覇権国にすり寄っているだけで安泰だったのは昔の話。たくさんのプチ覇権国の一つだけに入れ込んでいたら、他のプチ覇権国に何をされるか分かったものじゃありません。

 

イラン、イスラエル北朝鮮、まだまだ目を離すことができないようです。

 

「異次元緩和の終焉 金融緩和政策からの出口はあるのか」野口悠紀雄著

アベノミクスの欺瞞性と犯罪性については、このブログの中であれこれと書いてきましたが、あくまでも経済は素人の私が色々な情報を総合して判断したものが中心です。

 

しかし、この野口さんの本を読むと、そういった私の推論と同じような議論が、しかも当然ながら非常に精密な論拠の元、十分な証拠を持って論じられていることに驚きました。

(少し、自慢になります。)

 

そして、その議論の先にあるものは、怖ろしい予測となります。

つまり、この馬鹿げた金融緩和政策はいつかは止めなければならないのですが、その時には大変な混乱が生じ、下手をすると日本の財政、経済が崩壊するかもしれないということです。

 

本書刊行は2017年10月、そこから少し時が過ぎていますが、まあほぼ同一の状況とみなせるでしょう。

 

17年5月には、長期国債発行残高の4割を日銀が保有するということになってしまいました。かつては1割以下であったものが。

日本の株式市場も、日銀のETF(上場投資信託)購入により株価の高値が支えられている状況です。

国債保有の大部分を占めていた民間銀行は日銀に国債を売り渡しましたが、その代金は当座預金として日銀に積まれています。しかしマイナス金利政策によりその預金にマイナスの利子をつけることが可能となりました。それで銀行の収益は悪化しています。

 

こういった状況は、いずれはやってくる「金融緩和政策」からの撤退の時には、金利上昇が起こり、日銀に巨大な損失が発生する理由となります。

その額は、長期金利が3%となった場合には69兆円と言う膨大なものになります。

一刻も速く「緩和政策からの出口」を議論し実施していかなければ、その災禍は日本全体を破壊しかねないものとなります。

 

 

自民党が政権に返り咲いた時、「異次元の緩和政策」というものを取りました。

これは失敗が明らかとなりました。

第1に日銀が国債を購入してもマネタリーベースが増えるだけでマネーストックに影響は出ませんでした。

第2に、消費者物価指数の前年比2%増と言う目標は達成できませんでした。

第3に、為替レートや株価に影響を与えたものの、設備投資支出を増やすことはできず、実質消費は物価上昇と実質賃金低下を通じてマイナスになりました。

 

結局は、異次元緩和政策というものは、「期待」を動かすだけのものでした。

それで、為替レート、株価といった「資産価格」は動きました。これらは期待で動く性質があります。

しかし、消費や投資、生産や賃金といったファンダメンタルズ、実体経済は期待というものにはあまり左右されないものでした。

資産価格は上昇し、多くの人は日本経済が回復していると誤解しました。しかし実体経済は不調のままでした。

 

ただし、円安が進んだのは日本の金融緩和のためではなく、ヨーロッパ経済危機の沈静化のためだったようです。

 

マネタリーベースの増加がマネーストック増加につながらなかったのが、物価上昇が起こらなかった原因と言われます。

日銀が民間銀行から国債を購入すると、その代金が民間銀行が日銀に持つ当座預金口座に振り込まれるので、それでマネタリーベースは増加します。

しかし、民間銀行が当座預金に持っているだけではマネーストック増加にはつながりません。

民間銀行がその資金を他の企業などに貸し付けることで、マネーストック増加が引き起こされるはずでした。

企業の設備投資の増加も起きず、わずかに個人向けの住宅ローン貸付が増えただけでした。

つまり、借り入れ需要が無ければいくらマネタリーベースを増加させても貸付にはいたらないと言うだけのことです。

 

しかも、消費者物価の動向と言うものは、現代では主に輸入物価の動向で説明できるようになってしまいました。

特に、原油価格の上下によっての影響が大きいものであり、日本の金融政策などでは決まらないと言うことです。

にもかかわらず、物価上昇を理由に金融緩和を実施したこと自体、始めから間違いだったということになります。

 

 

棚ぼた式の円安効果で、輸出産業が潤ったと言われています。

通常は、円安になれば輸出品が値下がりして売れ行きが上がり、そのために国内の各段階の産業が活発になるというのがシナリオです。

しかし、この時期の円安では、輸出数量の増加は起きていません。

これは、最近の輸出品の価格決定では為替変動を理由とした細かな値付け変更をしていないと言う状況があります。

そのため、輸出数量が増えなければ国内生産も増えず、下請け売上も増えず、設備投資も増えず、さらに零細企業では利益はむしろ減り続けました。

そして、中小企業を中心にさらなる人件費削減となり、賃金下落を招きました。

ただし、円安では輸出産業の利益は増えます。そのために、輸出大企業の業績アップ、株価が上がるので投資家の収益アップは成し遂げられましたが、中小企業の業績ダウン、労働者の賃金下落が起き、格差拡大となったわけです。

 

企業は空前の利益を上げましたが、それは内部留保の増額にのみ向かいました。

設備投資もせず、人件費増もせず、ましてや下請けへの支払い増もしません。

 

今やるべきなのは法人税増税、消費税の減税です。

 

世界はすでに金融緩和の脱却に向かっています。

アメリカはすでに2014年に量的緩和政策の終了を決定し、金利の引き上げに向かっています。

欧州中央銀行(ECB)も金融緩和からの出口を探っています。

日本もいずれは出口に向かわなければなりません。

 

しかし、日本が金融緩和政策を止めると大きな影響が出ます。

金融緩和政策終了では、金利が上昇する可能性が強くなります。

金利上昇は国債市場価格の下落を意味します。

それは日銀が保有する国債の評価額下落となります。それが69兆円と言う額です。

日銀が債務超過となれば、日銀納付金と言う政府の収入が減ってしまいます。

さらに、一番の問題は日銀券の信用が無くなることです。

こういった不換紙幣の乱発でハイパーインフレを起こした例はいくらでもあります。

国債も現在保有されている国債が期限が来てまた新たな国債発行ということを繰り返していますが、その新規発行の国債は高い利率を付けなければなりません。

そのため、国の財政はさらに厳しくなることになります。

このままいけば国債費が予算の半分以上を占めるまでになってしまい、財政は破綻します。

 

必要なのは、金融政策頼りの成長は不可能と言うことを悟り、すぐにでも金融緩和政策の停止を目指すこと、そして、産業構造の改革に着手することだそうです。

 

 

多くの点で、国家財政の基本から見て金融緩和政策がいかに効果が無く、危険が多いかと言うことを示していた、優れた解説でした。

ただし、最終章の「産業構造を改革して成長」というのは、私は無理だと理解していますので、その部分のみは評価保留です。

しかし、文句なしに本書の内容は誰もが知っているべきだと感じました。