爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「戦後日本経済史」野口悠紀雄著

第2次世界大戦で敗れた日本は、占領軍によって農地改革や財閥解体などの民主化改革を受け、軍備増強ではなく経済成長に集中することができたために、戦後の復興と高度経済成長を果たすことができたというのが、標準的な見解でしょう。

 

しかし、大蔵官僚として内情まで通じている著者からみると、それとは全く違う姿が見えてきます。

それは、「戦後日本経済は、戦時下に確立された経済制度の上に築かれた」というものです。

特に、「間接金融体制」というものが高度成長期までを支えてきたのですが、この体制は実は戦時中に取り入れられたものだったのです。

(間接金融体制とは、企業が資本市場からでなく、銀行からの借り入れにより投資資金を調達する仕組み)

 

そして、著者がさらに強調したいのは、そのような歴史的な経緯もさることながら、その体制がバブルを引き起こしそして崩壊までも起こしてしまったのは、そのような軍隊型の体制がまったく時代錯誤となったからであり、バブル崩壊後の長期停滞もそのためであるといこと、そして現在のアベノミクスもその幻影を追いかけるだけだということです。

 

昭和20年8月15日に日本は敗戦を受け入れましたが、それで多くの国民は茫然自失したものの、政府の多くの官庁はそれどころか自らの生き残りのためにあらゆる努力を始めました。

大日本帝国の政府の中でも、内務省などは消滅しましたが、大蔵省、通産省日本銀行といった経済の主力となる勢力は、占領軍に上手く取り入り存続を果たしました。

占領政策として行われたように見えるものの多くが実は日本側の官僚の意向だったということです。

著者は1964年に大蔵省に入省していますが、その時の事務次官は「昭和12年入省組」、以下局長、課長、係長まで延々と連続して入省した人々が終戦前と同様に執務していたということです。

 

旧日本の財閥などの資産保有階層、地主階級といった人々は、占領軍による財閥解体、農地解放などの施策で没落したと思われていますが、実はこういった施策はすでに戦時中に軍部や改革派官僚によって準備され、敗戦後に占領軍のお墨付きを得て実施に移されただけのものだったのです。

戦前の日本の都市住民は、借地借家に住むのが一般的でした。これも借地借家法の改訂により借家人の権利が拡充され、事実上借家人の所有になってしまうのですが、この借地借家法改訂も実は、終戦前の1941年のことだったのです。

 

こういったことが可能だったのは、ほとんどアメリカ軍であった占領軍には、日本の出身者が居らず、日本の内情を知るものが居なかったからです。

占領軍の認識はルース・ベネディクトの「菊と刀」程度のものしかありませんでした。

アメリカ人の中には、日本語の文章を読める者も少なく、日本の役人のやりたい放題だったようです。

こういった状況は、政府高官がアメリカに亡命し占領政策実行時にはアメリカの有力な助けとなったドイツの状況とは全く異なるものでした。

 

このようにして、日本政府官僚が占領軍を騙しながら確立したのが「戦後レジーム」です。

これは戦前に彼ら改革派官僚が果たそうとしてできなかった「統制経済」の確立であり、「日本型社会主義」とも言えるものでした。

これを作ったのは岸信介を始めとする人々なのですが、その孫の安倍晋三はそれを知ってか知らずか「戦後レジームからの脱却」と言っています。

いずれにせよ、ちゃんとした知識が欠けているのは間違いなさそうです。

 

戦後復興を果たした日本企業は、その後高度経済成長に入ります。

これを支えたのは、電機産業や自動車産業など、実にかつての「戦時企業」が看板だけ替えた重化学工業でした。

それらの企業を支えているのも、戦時制度そのままと言うべき労使協調でしたし、社会制度、政治制度もすべてそのような基本の上に出来上がっていたものでした。

 

 順調に発展を続けてきたように見える日本経済ですが、1960年代には欧米諸国から自由化を求める声が強くなります。

輸入品の自由化率を上げることや、通貨交換性の回復、国内市場開放が求められます。

まだまだ日本の産業は保護が必要と考える政府は小出しに対応をしていくことになりますが、すでに製造業側は保護は不要という認識になっていました。

 

その当時に政治の主導権を握ろうとしていたのが田中角栄でした。

それまでの輸出企業への融資中心の投資から、地方への公共事業分配による資金還流に向かいました。

この当時の日本の社会は、戦前のような財閥と資本家が支配する資本主義社会ではなく、資本家のいない平等社会と言えるものでした。

大企業は労使協調が行き渡り、中小企業には様々な政策融資が流され、農家は食糧管理法(これも戦時立法です)によって生産性向上無くして補助金がもらえるようになりました。

これは、当時のソ連や中国の実情などはるかに超える社会主義社会だったのかもしれません。

 

しかし、徐々にアメリカ社会の実情も知られるようになってくると、日本の経済規模の割に庶民の生活は劣悪であるという認識が高まってきます。

1973年に、著者が「国家的ねずみ講」と呼ぶ年金制度が整備されました。

その当時はまだ高齢者の比率が低かったために、年金給付が多い割に負担が少ない構造が問題となることはありませんでした。

しかし、その後の高齢化によってあっという間に財政への負担が急増します。

 

さらに、1970年代には所得税の大減税が行われます。

この当時にはサラリーマンの徴税に対する不満が激しくなりました。

訴訟も提起され、総評も必要経費を求める運動を始めるなどの動きに、田中首相は大幅な所得控除の引き上げを実施しました。

田中角栄は大蔵省をも強く支配していたために、こういった施策にも反対を許さずに突き進み、結果的に政府財政をガタガタにしてしまいました。

 

ちょうどこの時に、中東戦争が起こりそれに対して産油国が石油供給をストップするという、石油ショックが起きました。

これにより、石油価格の急騰が発生、石油を安く買い使うことで産業を動かしていた先進国に大打撃が発生します。

この石油ショックに最も速やかに適切な対応をしたのが日本でした。それは、この後のバブル経済につながります。

 

バブル経済の中では、株式市場の活性化が起きました。

どの企業でも財務担当者は株投資を始めとする「財テク」なるものの狂奔することになります。

そして、これは実は戦時中から続いており、しかも戦後復興と高度経済成長を成し遂げた銀行中心の金融体制からの脱却にほかなりませんでした。

この結果、銀行はそれまでの企業に対して資金を供与し売上を上げていく経営ができなくなり、資金運用難に陥りました。

「銀行が要らなくなった」と言える状況になったのです。

しかし、銀行は生き延びようとしました。これがバブルの弊害を大きくしました。

企業向けの融資から、不動産向けや中小企業融資などにのめりこんだのです。

これらが不動産バブルを激化させ、結果として不良債権の山を築きました。

 

このように、バブルまでの日本経済は「戦時体制」のままに運営され、それがちょうど時代にマッチして成功しました。

しかし、その後の世界はそのような戦時体制ではまったく適応できないものとなっています。

にもかかわらず、相変わらずかつての高度成長に幻想を抱き、バブル再燃を願う人々が多いようです。

現在の政権もまさにその通りです。

 

戦後経済史

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戦後日本経済史 (新潮選書)

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入り組んでいて魔物のような印象があった戦後経済ですが、非常に分かりやすく整理されていると感じました。