日本は男女格差が非常に大きいと問題視されています。
それが「伝統的」な社会のためだと言われ、その是正には保守主義者が反対するということもあるようです。
しかし、本当に「伝統的」に日本社会は男女格差が大きいのか。
歴史を見てみるとどうやら実態は全く異なり、古代では男女はほとんど同等の権利を持っていたのが、徐々に格差を広げる方向で変化し、武家社会になるとさらに女性の権利が剝奪され、それが制度的にも完成されたのが明治時代以降だったようです。
古墳時代前期には女性首長の割合が全国では5割、畿内では3割だったそうです。
しかも古墳の副葬品から、女性首長は祭祀だけでなく軍事・政治も司る実質的な権力者であったようです。
卑弥呼は鬼道を事とし男弟が国政の補佐をしたと魏志倭人伝には書かれていますが、当時の中国はすでに男尊女卑が非常に強かったため、中国側の先入観が影響している可能性があります。
実際には卑弥呼と弟は役割分担はせず共同して祭政に当たっていたかもしれません。
男尊女卑が強い中国は父系社会と言われますが、それに対し日本は母系社会だったかというとそうではなく、父系・母系の両要素を持つ双系社会ではなかったかと思われます。
平安時代まではその傾向が強く、天皇の母方が権勢を誇る外戚政治が行われたのは母系の影響力が強かったからです。
藤原道長は源倫子と結婚すると倫子の実家の土御門殿に通い、そこで生まれた彰子たちの里邸となり、さらに彰子の産んだ天皇たちの里内裏となっていきます。
ただし、このように女性の権勢が強いのもその親の財産がある場合だけで、資産の無い女たちは惨めな境遇になることになります。
古代から近代まで、性観念はゆるく、結婚したとしても離婚・再婚が普通でした。
戦国末期にキリスト教宣教師が布教を始めた時、キリスト教の教義で日本人が最も受け入れがたいとしたのが結婚に関わるところで特に離婚してはいけないという部分でした。
その後江戸時代にも離婚再婚は当たり前という風習が続きます。
これは日本では処女性というものに価値を置かず、離婚したことによって女性は名誉も失わないという価値観があるからでした。
この点がヨーロッパとの貞操観念の大きな違いであり、結婚観の違いになります。
宣教師たちが驚愕しなんとか止めようと必死になったのが男色の横行でした。
特に仏教界にはそれが蔓延していました。
ただし、現在言われるようなLGBT的な同性愛というのではなく、幼い弟子を相手にするといった権力の構造によるものであり、仏教では異性性交が禁じられていたからという理由によるものです。
そのためか、女性同士のレスビアンというものはほとんど存在せず、話題になることもありませんでした。
このように、前近代の日本はジェンダーレス、性の境界というものがあいまいなものでした。
それが江戸時代に始まる男尊女卑が明治期に制度として強化され、戦前まで続いたのが「伝統的社会」の正体のようです。