天皇の位には女性でもつけなかったというわけではありません。
しかし現代の感覚からは女帝の存在は「緊急登板」だとか「中継ぎ」であったという見方が支配的でした。
そのような風潮(学界も含め)は徐々に変わってきているようですが、それでもまだまだでしょう。
そのような見方というものに対し、「歴史を裏返す」と題して通説に一撃を加えようというものです。
もちろん永井路子さんは歴史学者ではないとご自分でも強調しており、あくまでも小説家としてというスタンスは堅持していますが、その真意はかなり歴史学者の蒙昧を指摘しているかのようにも見えます。
なお、永井さんは今年になって97歳でお亡くなりになりました。
それを知っていてこの本を読みだしたわけではないのですが、何かの縁があったのでしょう。
女帝について語っていくようではありますが、その一方で古代の天皇家を含む氏族の争いについてもかなり目を開かせられる書き方がされています。
そのポイントは「妻問い婚」にあると感じます。
妻問い婚といえば平安時代の貴族が有名ですが、実はそれ以前の方が強力だったのかもしれません。
天皇や皇族と言えど男は女の元に通い、子供が生まれれば女の家で養育していた。
これは皇后や皇子、皇女であっても同様であり、蘇我氏の娘の元に産まれた皇子たちは蘇我氏で育てられたということを強く認識していないとその当時の政争について見誤ることが多いようです。
なお、そのような状況でも「母系社会」ということではなく、もちろん父系社会であるわけでもなく、いわば「双系社会」であるということです。
それですっきりと判るのが、父が天皇であっても母が卑賎であれば絶対に天皇とはなれないという当時の感覚です。
そして、推古天皇の項で語られているのが、その頃は蘇我氏が実質的にも大王であったということです。
日本書紀には蘇我馬子などが増長して天皇の振る舞いをしていると批判して描かれていますが、それがやはり実態だった。
そして、推古女帝は父が天皇、母が蘇我氏の娘(蘇我氏の実質的主権者)、さらに夫も天皇ですから、中継ぎ登板などのわけもなく、これ以上は無いほどの天皇適任者だったということです。
蘇我氏は蘇我馬子を倒した乙巳の変(大化の改新)でその主流は滅ぼされましたが、それを行なった中大兄皇子、中臣鎌足(藤原)に協力し生き残ったのが蘇我倉山田石川麻呂でした。
彼の娘と中大兄皇子(天智天皇)との間にできた娘が持統天皇でした。
しかし祖父の倉山田石川麻呂も政争に敗れて殺されます。
持統の感覚としては母方はやはり蘇我氏という思いがあったため、台頭した藤原氏勢力とそれに取り込まれた天皇家の人々を敵視していたのだろうと想像しています。
結局は藤原系の影響力に敗れることになります。
どうやら、女性天皇という存在は今まで言われていたような単なる中継ぎとかお飾りなどと言ったものとは全く異なり、それぞれの勢力を掛けて争う上での主体としてのものだったようです。
だからこそ、推古天皇から称徳天皇までの期間では男女がほぼ同数であり、しかも推古天皇は在世36年という、とても中継ぎなどと言うものではなかったのでしょう。
そちらに真実はありそうです。