爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

子どもの頃の夏休みの思い出

ニュースでは学校の終業式で夏休みが始まるそうです。

こんな爺さんでも子供の頃の夏休みの思い出はあるんだというところを見せておきます。

 

小学校時代以前は父の転勤であちこちに引っ越ししたのですが、それでも夏休みは母の実家の長野に長期間滞在ということをしていました。

おそらく名古屋や東京など暑いところにいるのも可哀そうとも思ったのでしょう。

記憶も不確かですが、名古屋に住んでいた3歳から小学校1年までの間には数回、福岡に住んでいた小学2-4年の時には1回、東京に転居した小学5年の年に1回、それぞれ夏休みの数週間長野の母の実家に行きました。

行くのは私と2歳年下の弟だけ、母はいったん家に帰りました。

 

この時の思い出は、はるかに年を取った現在から見ればわずか数年の違いしかないのですが、小学5年の時のことはかなりはっきりと覚えていますが、それ以前の時はおぼろげな記憶しかありません。

 

その頃はまだ祖父母も元気、叔父もまだ子供がいない頃で、結構自由に遊ばせてもらいました。

近所に同い年の男の子も二人いて、遊び相手には事欠きませんでした。

 

小学5年の時には、そろそろ自転車にも乗れるようにと親が思ったのか、子供用自転車を1台購入して夏休み前に実家に送り、近所で走って練習しました。

今は子供の自転車練習にはペダル無しの蹴って乗るタイプで慣れるのが効果的ということが分かっており、それで練習すれば早く慣れるようですが、当時はそんな知識もなくただ転びながら乗るだけでした。

近所の子どもと一緒に小学校のプール開放にも出かけました。

小学校はかなり遠く、長時間歩いてようやくたどり着きましたが、丘の上の見晴らしの良い学校でした。

今だったら他所の子どもも一緒にプールに入るなどは考えられないのでしょうが、当時はのんびりしたものでした。

小川で雑魚を釣るために釣竿を買ってくれることとなり、祖父と飯田市内まで出かけました。

祖父は明治生まれ、自動車免許などは持たなかったので、バスに乗り1時間近くかけて町まで行ったように思います。

寡黙な人でほとんど話した覚えもないのですが、じっと待合室に座って煙草を吸っていました。

 

今は温暖化とやらで、長野南部も暑いのでしょうが、当時は昼間こそ直射日光で暑く感じるものの朝夕はぐっと涼しくなりました。

飯田市近郊は花火の盛んなところで、盆の期間は毎晩のように町ごとに花火大会が開催されていました。

高い建物などもない時代でしたので、母の実家からも別の町の花火まで見えたものです。

 

その後、天竜川の河原周辺には多くの工場などが立ち並び、実家の前の道も朝夕は通勤の自動車がひっきりなしに走るようになってしまいました。

当時は道に街灯もなく、真っ暗闇で歩くのも怖かった覚えがあります。