爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

私と長野 その2

(その1より続く)

名古屋に住んでいたのは小学校1年の時まで。

その後父の転勤で福岡に移ります。

さすがに福岡から長野には帰省というのは難しかったのでしょうが、それでも1回は行ったような気がします。

はっきりとは記憶がありませんが、おそらく曽祖父の葬儀ではなかったでしょうか。

母方の祖母の父親で当時としてはかなりの長生きでした。

 

福岡に居たのは3年間でその後また父の転勤で東京に引越し。

近くなったのでその年も夏休みは母の実家に長く逗留しました。

名古屋時代はさすがにほとんど記憶も少ないのですが、この時はもう小学校5年だったのでよく覚えています。

母の実家の両隣には同年齢の男の子が居たので、よく遊びました。

彼らが小学校のプールに泳ぎに行くというので、一緒に連れていってもらったこともあります。

世の中がのどかな時代だったのでしょう。

小学校は家のあった2段目の段丘よりさらに1段上で怖ろしく遠いところのように感じましたが、今地図を見ると2㎞ちょっとくらいでさほど遠いわけでもなかったようです。

少し高台ということで見晴らしは素晴らしいところでした。

それまでは乗れなかった自転車もこの機会に練習するということになり、購入した自転車を行く前に送って田舎道で練習しました。

それでもなかなか上手く乗れなかったものです。

釣竿を買ってもらいに祖父と飯田まで買い物に出かけたこともありました。

帰りにバスターミナルまで行ったらバスが出るまで1時間もあるということで、どうするのかと思ったら祖父はベンチにドカッと座りタバコを加えて吸っているばかり。

寡黙な人でしたが何も言わずに吸い続けていました。

 

東京の社宅には1年ちょっと居ただけで、父は家を神奈川県茅ケ崎に建ててそこを終の棲家としました。

そこに引っ越したせいで長野へ行く経路がまったく変わってしまいました。

それまでは新宿へ出てそこから中央線で辰野まで行き飯田線に乗り換えるのですが、茅ヶ崎からは小田原まで行って新幹線で豊橋へ、そこから飯田線というのが少し早く着いたようで、それからはこの経路が普通になりました。

飯田線は飯田を境に全く風景が変わります。

北側は伊那谷とは言っても広い谷で明るいイメージがあり、両側の山々もアルプスの高山で雄大な光景でしたが、南側からのルートは峡谷沿いでトンネルばかりでした。

 

自分が中高生となると、やはり親の帰省に付き合うよりは家で遊んでいる方がよくなりあまり長野には行かなくなりました。

それでも法事とか結婚式、葬式などでは連れていかれることもあり、結構頻繁に行ったものです。

印象深いのは叔父の結婚式で行ったのですが、叔父の運転の車に乗ったら山梨に入ったところで事故にあい、真夜中だったのですが道路沿いの家の方に家に上げてもらって迎えの車が来るまで休ませてもらったこと。

父方の祖父母の法事をやるというので、夏に行った時は陽の光のまぶしい日だったのですが、菩提寺豊丘村曹洞宗の古刹で、その雰囲気も深さを感じさせるものでした。

 

中高生の頃に長野へ行った目的には、「SLの写真を撮る」というのがありました。

ちょうど国鉄のSL全廃がもうすぐという時代で、中央西線の長野側では最後の活躍をしていました。

そこの写真を撮りに行ったのですが、さすがにまだ旅館に泊まっての撮影旅行ということまではできなかったので、前日に下伊那の母の実家まで入り、翌朝始発列車で木曽へ、そこで半日撮影し夕方に名古屋まで出て知人の家に泊めてもらうという手を使って、3回ほど撮影に行きました。

北から言えば、木曽平沢、藪原、木曽福島、上松、田立、落合川といった駅で降りてあとは歩いて撮影場所を探しました。

 

(その3もあるかな)