何と言うかぼんやりしたタイトルですが。
よく拝見しているブログに「ぺこちゃん」さんのものがあります。
おそらく東海地方在住の若い女性の方だと思いますが、楽しそうな話、美味しそうな話で嬉しくさせてもらえます。
どうも長野県と関連がありそうな話が多いと思っていました。
ところがこの前のブログでやはり飯田地方のご出身ということが分かりました。
それで一気に長野県への懐かしさが爆発?、長野と私のつながりについてあれこれと思いつくまま書いてみようかという気持ちになりました。
何度も書いているように、私自身は長野県に住んでいたということは無いのですが、両親ともに長野県南部の伊那地方出身です。
父や母の生涯ということはこれまでにも触れたことがありますので、あくまでも私自身のことについて絞ってみたいと思います。
埼玉県浦和に住んでいた父の所に母が嫁いで私が生まれました。
もう70年近くも前のことです。
母は6人兄弟の長女でまだ弟妹は家にいましたので兄弟の中では初めて故郷を離れたことになります。
母の親族もほとんどが長野在住であったので一人で東京に出てきたのは心細かったと思います。
浦和には4年ほど居たことになりますが、その間長野に帰ったのはおそらく一度きりだと思います。
親族の誰かの葬儀だったのでしょうか、母が一人で弟を背負い、私の手を引いて中央線と飯田線を乗り継いでの帰郷でした。
私自身にとっても初めての長野への旅だったのでしょうが、全く記憶にはありません。
母はおそらく26,7歳くらいだったでしょうか。
子供二人を連れ荷物を抱えて大変だったでしょう。
その後、私が三才の時に父の転勤で名古屋に移り住みました。
南信からは名古屋の方が近く行きやすいということでたびたび帰省することになりました。
とはいえ、今のように中央高速であっという間と言うことはなく、豊橋から飯田線に乗り換えての電車旅です。
現在でも豊橋から飯田までは特急でも2時間以上かかりますが、当時はさらに長時間でした。
母の実家は飯田からもう少し北の高森町で、元善光寺の駅から少し歩いたところでした。
昔はかなり遠いように感じていましたが、今地図で見てみるとわずか1.2㎞しかありません。
子どもの足でははるか彼方のようだったのですが。
当時から名古屋の夏の暑さはひどいもので、避暑をかねて?私たち兄弟を母の実家に預けて母はまた名古屋に帰るということをしていました。
当時わずかに覚えているのが、河原のそばに広がる水田の間の水路で竹を編んだ籠で小さな魚をすくう雑魚取りでした。
祖父や叔父に連れられて行ったものと思います。
ただし、それがその頃の記憶だというのは確かな事であり、昭和36年(1961年)の三六水害という大規模な災害で風景は全く変えられてしまいました。
天竜川の流域は有名な河岸段丘地帯で、母の実家は河原の段より一段上がった二番目の段丘の端にあったのですが、水田は一番下の河原の平面であり、そのあたりは完全に水害で流されてしまいました。
その後は雑魚取りができるような水路もなくなりました。
なお、水害のすぐ後に父は一人で長野に行ったらしく、あちこちを撮影した写真が残っていました。
かなり大きな被害だったことはそれでも分かりました。
その後も長野に帰省するたびに泊るのは母の実家だったのですが、滞在中に必ず訪れたのが父の郷里です。
それは高森町の北隣の松川町で、父の実家はもう無くなっていましたが、親しい親戚(父の祖父の弟の家)には必ず一度は訪れていました。
その家のすぐ上に我が家の墓があり、そこが普段から草取りなどの整備もして頂いていたということもあり、御礼もかねての訪問でした。
父の祖父の代にはその家の河原寄りに大きな屋敷を構えていたそうですが、度重なる水害もあり、また借金もかさみ祖父の代にそこを離れてしまいました。
しかし父はやはりずっとそこからの風景が好きだったようです。
天竜川の東岸で、中央アルプスも念丈岳や空木岳が一番きれいに見えるところでした。
なお、母の実家からは7㎞程度しか離れていないのですが、山の見え方はかなり異なります。
母の実家は天竜川西岸なので前面には南アルプスの最高峰の稜線ではなく一段前の標高2000m未満の山々が壁のように見えます。
高森町でももう少し標高の高いところ(中央高速より上)では南アルプスの稜線も見えるようですが、子供の頃はそのようなことも分かるはずもなく、ただ高い山だなと思っていました。
(その2に続く かな)