爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「最後の一文」半沢幹一著

小説というものは、最初の文章には非常に気をつかうのでしょうが、それと同じくらい、いや作家によってはそれ以上に気に掛けるのが「最後の一文」だそうです。

そこで様々な名作についてその最初の文章と最後の文章を並べてその意味を考えるというものです。

 

とはいえ、対象作品はあまりにも広すぎますので、「教科書に載っている作品」「名作の終わり方」「文豪の苦心と微笑み」などと題してグループ分けし、有名な小説を取り上げています。

 

芥川龍之介の「羅生門」は知らない者はいないほどの名作で、高校の教科書にも載っていますが、その最後の一文は「下人の行方は誰も知らない」というものでした。

実はこの文章は最初の発表時のものとその後の本では少し変えられています。

最初のものは「下人は既に雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった」というもので、下人がその後の人生を悪の生き方を選んでいしまったということをはっきりと示したものですが、それでは余韻が少ないとして現行の文章に変更したということです。

そしてこのように、あくまでもその場限りの出来事を記したという姿勢を貫くことでそれ以前およびそれ以降のその下人についてはいっさい関知しないという意思を見せる表現にしたということです。

 

川端康成が二十代の頃に書いた「有難う」という小説があります。

その最初と最後の一文はまったく同じ文章です。

「今年は柿の豊年で山が美しい」というものです。

小説の中では、生活苦のために娘を売りに行く母親がバスに乗り、そのバスの運転手の様子を描くというもので、決して自然の美しさを書くことが目的ではないのですが、人間の営みの厳しさも自然の営みのように見せるという手法なのではないか。

なお、「有難う」という題はそのバスの運転手が行違う車や馬車が道をよけてくれるのに対していちいち「ありがとう」と声をかける場面が出てくることからつけられています。

 

浅田次郎の「特別な一日」という作品についてはまったく知りませんでした。

最初の文は「この日が必ずくることはわかっていた」であり、最後の文が「彗星のかがやきをおしとどめ、薔薇の香りに包まれた時間がこれから始まる」というものです。

話は初老の男性がどうやら定年退職の日を迎えるのですが、その日を「特別な一日」にしないように周囲が過度に気をつかう不自然さを描いています。

しかし最後で話は大逆転、実はその日は超巨大な彗星が地球に激突して世界が終わる日だったという落ちがつけられるというものです。

ただし、こういった作品の構成は決して奇をてらったというものではなく、福島原発事故などで露呈した「想定外」などと言う言葉について問いかけずにはいられなかった浅田の、逆説的な強いメッセージだったのではないかという解説です。

 

「小説の読み方」というような本は読むものの、小説そのものは読んでいません。

いつまでこの調子が続くのでしょうか。