爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「星新一の思想 予見・冷笑・賢慮のひと」浅羽通明著

日本で初めてSF作家と呼ばれた人、そして1000を越えるショートショートを書いた人、星新一は、しかし文学者としてはあまり評価されることが無く、その「作品論」というものも書かれていません。

星新一自身の個人的な生涯の概説は、最相葉月さんによって「星新一 1001話をつくった人」という決定版とも言うべき評伝が書かれていますが、作品の内容に踏み込んだものはないようです。

そこで、それを書いてやろうというのがこの本です。

 

星新一の作品は今では学校の教科書にも載っているようです。

また、海外でも多くが翻訳され出版されています。

しかし、それはどうも文学的な色合いが薄いからという理由があるようなのです。

教科書もたいていは小学校高学年から中学までのもので、高校生になると皆「星新一からは卒業」してしまうようです。

 

しかし、星の作品の中にはすでに半世紀以上も前に現在のIT化やディストピアなどを予見したかのような内容が見られ、今になって読み返して驚くと言ったものも多いようです。

ところが内容はそうであっても、表現や人物描写などは素っ気ないものであり、そういったところが文学者や評論家からは酷評され「あんなものは文学ではない」といった声が初期からずっと聞かれました。

どうやら、星新一は通常の文学者とはかなり違った才能と興味を持ち、それを作品に表現していったようです。

 

こういった観点から、本書では次のような章題で進められています。

第1章「これはディストピアではない」

第2章「秘密でときめく人生」

第3章「アスペルガーにはアバターを」

第4章「退嬰ユートピアと幸せな終末」

第5章「『小説ではない』と言われる理由」

第6章「SFから民話、そして神話へ」

第7章「商人としての小説家」

第8章「寓話の哲学をもう一度」

そしてエピローグとしては「錬金術師とSF作家」というものが掲載されていますが、星新一錬金術師という存在の関係について語られています。

それぞれのテーマでは、それをよく示している作品を取り上げての議論で、その作品を読んでいない場合でもある程度は分かるような形になっています。

 

ディストピア小説」、特にSF小説には名作が多いものですが、ザチャーミンの「われら」、オーウェルの「1984」などは有名なものでしょう。

星新一にも「流行の病気」、「牧場都市」、「生活維持省」といったものがあります。

通常、ディストピア小説においてはその覆いかぶさった圧力を描写し、そして必ずそれに対して反抗・反逆する主人公が登場します。

しかし、星新一の場合はそういった反逆者は登場しないようです。

星新一はそのような反逆精神は持ち合わせていなかったのか。

あの1990年代に用語の差別性が糾弾され、言葉の差し替えが強要されるといったことが頻発したことがありました。

筒井康隆はその風潮に怒りたち、断筆宣言をします。

しかし星はそのような反抗はせず、黙々と言葉の差し替えをしたようです。

 

このようなとこから、著者は星の思想の根源に「すべてを相対化する」というものがあると考えています。

つまり、正義も何もかも、絶対のものは無いのだから、それに従うということもないということです。

 

星新一の思考法は、小説家と言うよりは実践を忘れぬ応用科学者、あるいは開発事業主のようなものだと考えられます。

そのような作家がアメリカにもいました。

O・ヘンリーがその人であり、もともとは薬剤師であったようです。

彼の「最後の一葉」もその主要部分の対応が「ナッジ理論」に従うものだと理解できるそうです。

ただし、このような思考法はやはり文学的とは見なされにくいもののようです。

そのためか、O・ヘンリーの作品は小中学生向けの小説入門用、あるいは語学テキストに最適と考えられ、文学的な評価からは遠くなっていた。

まさに星新一の境遇と似通っているようです。

 

1977年、SF誌の「奇想天外」で、新人賞選考にあたったのが星新一小松左京筒井康隆の3人でした。

その年の新人賞では新井素子が受賞したのですが、新井を強力に推したのが星だったそうです。

その事情は最相の評伝にも詳しく書かれています。

小松と筒井は新井の文章表現が幼いとか、内容に感心しないといった否定的な意見だったのですが、星が絶対に良いと譲らず結局受賞が決まったのでした。

しかし、その後の新井の活躍を見ると星の意図が分かるようです。

新井の文体と手法は、現在ではSFに止まらず大きな市場となっているライトノベルという巨大ジャンルの一つの源流を見なされるということで、それを星は本当に見抜いていたのか。

そこまでは言えないのかもしれませんが、確かに星は新井が「読者へのサービス精神」に富んでいたことは見抜いていたと言えるようです。

 

最相葉月は星が「文学的評価」を得られずに終わったのを悲劇と謳いあげてその作品を終わらせました。

しかし、本書では星は文学的評価というものを本当はあまり問題としていなかったのではないかと考えています。

星は文学者というよりは「哲学者」と言われたかったのではないか。

そして、さらにそれを越えて「錬金術師」と言われる方を望んだのか。

 

どうも内容が文学的であり過ぎ、文学にはほど遠い(星さんと一緒)私にとっては手ごわい一冊であったようです。