爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「ポワロと私 デビッド・スーシェ自伝」デビッド・スーシェ、ジェフリー・ワンセル著

名探偵ポワロ」はアガサ・クリスティー推理小説の中でも最も有名なものでしょう。

1920年に最初の作品が発表されて以来、その映画化、テレビドラマ化は数多くなされてきましたが、その中でも1989年から放映されたイギリスのITVによるドラマが決定版とも言えるものでしょう。

その主人公として長年ポワロを演じてきたのがデビッド・スーシェでした。

小柄で少し太り気味、口ひげを生やし少し禿げ頭の紳士は誰もが思い浮かべるポワロ像となっています。

 

そのデビッド・スーシェがポワロのドラマにまつわる出来事を詳細に記録したのがこの「ポワロと私」という自伝です。

なお、自伝とは言うものの著者として名を連ねるジェフリー・ワンセルが文章はまとめたということでしょう。

 

デビッド・スーシェはその体格と名前からフランス系かと思っていましたが、実際にはイギリス生まれ、父系はリトアニアユダヤ人、母系はロシア系ユダヤ人だそうです。

父は医者であったものの本人の希望で演劇を目指し、舞台俳優として活躍する一方、映画にも出演はしていましたが、悪役の方が多かったようです。

 

ところが、1987年彼が41歳の時に名探偵ポワロをテレビドラマ化するという企画が始まりその主役とならないかという提案がされました。

スーシェはそれまでアガサクリスティーの作品をそれほど読んだこともなく、そのイメージも持っていなかったそうです。

(ただし数年前にピーター・ユスチノフがポワロ役の映画でジャップ警部役を演じたことはありました)

そこで、出演の意志を決める前にポワロの小説を数多く読み、ポワロ像というものを自分の中で確実にしておこうとしたそうです。

なお、その前に兄のジョンに意見を求めたところ、「私ならごめんだ。ポワロはちょっとした笑いもので道化だ」と言われたそうです。

しかし小説を読み込み、自分なりに「ポワロならどうする」というものを一つにまとめました。

それが巻末に93項の「ポワロの特徴リスト」として掲載されているものです。

第1項が「ベルギー人、フランス人ではなく」で、第93項の「汚れた椅子やベンチは座る前にハンカチで拭う」まで続きます。

 

さらに出演の意志を固めた頃にアガサ・クリスティーの娘のロザリンド・ヒックスと夫のアンソニーに面会しました。

アンソニーにくぎを刺されたのが「視聴者はポワロと共に微笑むのであって、決してポワロを笑ってはならない」ということでした。

さらにロザリンドには「だからあなたに演じてほしい」と背中を押されたそうです。

 

このようなデビッドの思い入れほどには製作者側、監督や脚本家などの気持ちは固まっておらず、最初の頃はデビッドが「ポワロはこんなことはしない」と思うようなことが数多くあり、それで監督やスタッフとの論争を重ねることがあったそうです。

しかしデビッドの言い分には十分に根拠と説得力があり押し通すことができました。

その結果、ドラマ完成後1989年の放映後は人気が出てきました。

ただし最初のシリーズ以降の製作はその段階では決まらず、デビッドは次の仕事をどうするかかなり悩まされました。

劇場での演劇出演を受けるととてもポワロ撮影を重ねて受けることはできず、迷うことが続きました。

 

しかしイギリスでの人気も上がり続けさらに海外にも放映が広がり人気を博しました。

全世界からファンレターが舞い込むという経験のない事態となりました。

中でも一番大きな意味があった手紙がアガサの娘ロザリンド・ヒックスからのものでした。

「あなたこそアガサ・クリスティーのポワロです。母もきっと喜んでくれたと思います。」と結ばれていました。

 

とはいえ、やはり何十作も続けられると徐々に飽きられ人気は下がるようになりました。

テレビ会社側も製作費の高騰もあり、続けることをためらうようになりました。

しかしデビッドはアガサの全作品ドラマ化という希望を持ち続けました。

その最後の作、カーテンを含む13作からなるファイナルシリーズを終えたのは2013年でした。

ただし、カーテンを撮影し終えた後に、それ以前の作品を撮影したのですが。

 

私もこのテレビドラマシリーズは大好きで、おそらくほとんどを見たと思います。

ただし、明らかに力も金も注ぎ込んだと見える「オリエント急行」や「ナイル殺人」といった作品もあり、それほどとは見えないものもあり、それはなぜかと思っていましたが、その細部についてもこの本には書かれていました。

あの大作には出演者にも大物を揃えるばかりでなく、セットにも多額の費用をかけていたそうです。

一方ではそもそもアガサの原作自体がごく小品というものもあり、それを脚本で引き延ばしたということもあったようです。

 

またドラマを見返してみようかと思っています。