最近は少し変わったかもしれませんが、司馬遼太郎の小説というものが国民的な人気を集めていたことがありました。
それも、財界人や政治家など日本のリーダー的存在の人々の中に愛読書として司馬の作品を挙げるという人が多かったようです。
佐高さんは評論家ですが、政財界の腐敗堕落などに厳しい眼を向けて批判を続けてきました。
そこから見ると、ちょうどその傾向のある政財界人たちが司馬遼太郎の作品を喜ぶということが構造的に必然かのように見えてきたようです。
それに対し、藤沢周平は司馬より少し年下の歴史小説家ですが、その作品はあくまでも一般人、社会の下で精一杯生きているといった人々を描写しています。
その作風を好む人々も多いのですが、ただしその人々は決して政財界上部の醜聞などを起こすようなことはありません。
もしかしたら、司馬作品の中にそういった「社会のリーダー」を自認する連中を引き付ける内容があるのではないか。
そういった観点からその作品を見つめなおし、さらに藤沢周平作品を対比させます。
なお、本書は1999年に単行本出版、2002年に文庫版出版という時期での刊行ですが、「文庫版あとがき」には、本書出版後に出版社に多くの投書があり、その大半は司馬作品愛好家からの批判の声だったようです。
それほどまでに司馬作品への信仰に近い思いを抱く人が多かったということでしょう。
両者の小説の違いを一言でいえば、「上からの視線」と「市井に生きる」でしょう。
天上から見下ろしたように社会を見ていくと、下々の実際は見えません。
そのためか、司馬作品には本当の悪人というものが登場しないそうです。
そこには「人間観の浅さ」が歴然としています。
司馬と藤沢で同じ人物をどう描いているか、幕末志士の清河八郎を見ると分かりやすく、司馬は通説のように暴虐を尽くし結局討たれたと通り一遍の描写ですが、藤沢はその生まれ育ちから愛すべき性格、そしてそのような人間がどうしてああいった方向へ進んだかを書いています。
本書後半には佐高さんと同様に司馬遼太郎に疑問を持つ、石川好、色川大吉、宮部みゆきの三者との対談が収められています。
宮部さんとの話の中で、藤沢と佐高は「苦界に身を沈めたという共通点」があり、そのために佐高さんは藤沢周平への思い入れが強いということが語られています。
実は両者ともかつて教職を務めた後、退職して業界新聞の記者として過ごし、その後に文筆活動に移るという経歴を持っています。
業界新聞の記者という職業を「苦界」と表現しているのですが、かなり厳しくかつ汚れたとも感じられる仕事だったそうです。
そのような経験をしたがために、社会の底辺の人々に対する眼も開かれるのだとか。
私は残念ながら司馬作品、藤沢作品はまったく読んだことがありません。
亡父の遺品で貰ってきた本の中に何冊か司馬作品があるようですが、それでも読む気になれなかったのはこういった雰囲気を感じてしまったからかもしれません。