爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「世界の名前」岩波書店辞典編集部編

世界各地の「人間の名前の付け方」はどのようなものか。

意外に知られていないまま、日本や欧米(それも一部だけ)のように家名と個人名が付けられているかのように思い込んでいますが、実はかなり違うところもあるようです。

 

そういったものを、岩波書店が中心となって各地の状況に詳しい人々にその地の名前の付け方について書いてもらったものを集めたものです。

歴史的に古い時代のものを載せたものもあり、すでに滅んでしまった民族のものも紹介されています。

 

ただし、だいたい1項目2ページ程度でまとめざるを得なかったためか、あまり細かく説明するわけにも行かず、歴史的経緯だけで多くのスペースを使って名前には少しだけという例もあったようです。

また、各項目の著者に対する要請が厳しく決められなかったのか、個人名に重点を置く場合と氏姓に当たる部分を多く説明する人と、両方ありあまり統一感はありません。

そんなわけで、学術的な資料としては少々不足する感はありますが、なんとなく知識として知っておくというには十分なのかもしれません。

 

古代ギリシアマケドニアでは一代おきに同じ名前を付ける、つまり祖父と孫とが同じ名前になるのが慣例でした。

セレウコス朝シリアでは、王の名前はセレウコスとアンティオコスが交互に現れます。

ただし、同じくマケドニア人が王朝を作ったプトレマイオス朝エジプトでは、すべての王がプトレマイオスを名乗りました。

因習に縛られずに新たな王朝を作ったという思いがあったようです。

しかし、それでは各代の王の区別がつかないので、あだ名のような添え名を付けることで見分けました。

一世はソテル(救済者)、二世はフィラデルフォス(姉を愛する者)、三世はエウルゲテス(善行者)、といった具合です。

最後の代の娘はクレオパトラ7世で、添え名はフィロパトル(父を愛する者)でした。

 

現代のエジプトでは、公用語であるアラビア語により、イスラム教の伝統で名付けされることが多いのですが、古代エジプト語やそれにギリシア語の影響が加わったコプト語がいまだに地名などには受け継がれ、人名の一部にもその影響が残っています。

特に、キリスト教コプト派を信仰する人々にはその意識が強く、ラムセスという古代エジプトの王の名をいまだに使っている人も居ます。

また、女性名で「サウサン」という名もその時代まで遡ることができます。

これは古代から親しまれていたスイレン科のロータスのことで、これはその後各地に広まり「スーザン」などの名前に変化しました。

ムバーラク元大統領の妻の名は「スーザン」で、知らない人々は英語かぶれだと評しましたが、実は古代エジプトからの伝統的な名前だったのです。

 

南米ペルーを中心に栄えたアンデス文明の最後の帝国がインカだったのですが、その言葉のケチュア語は今でも使われています。

その中で「インティライミ」という言葉は、「太陽の祭典」を意味するものです。

インカ帝国第9代の王パチャクティがその祭典を始めました。

この項を書いたアンデス考古学研究者の関雄二さんも、まさかその名を日本人の歌手が付けるとは思わなかったそうです。

 

北欧やロシアなどの北方民族を中心に、父親の名前を付ける「父称」という習慣がありました。

デンマークでは、父親の名に「セン」を付けて父称とすることが多かったために、アデルセン、ニルセン、オルセンといった姓が残っています。

デンマークでは1828年に姓を付けることが法律で強制されたために、その時の父称をそのまま固定して姓とした例が多かったそうです。

 

アイヌ人はかつてはアイヌ語の名前を子供につけていたのですが、今ではほとんどが日本語で名付けをするようになりました。

もともとは名字(姓)というものを持たなかったのですが、しかしアイヌでは個人名だけでも他の人と重なることはほとんど無かったようです。

というのは、他の人の名前と近いものをつけること自体がタブーであり、もしもそういった人が近くにいたら改名してまで違うものにしていました。

人間の運命の幸不幸は名前によって決まるという観念があり、同じ名前だと運命も巻き添えを食うという信仰があったようです。

したがって、本名はほとんど使わず、他人に教えてはいけないというもので、通常はあだ名だけを使っていました。

こういった点は、現代日本の若者にもその伝統が受け継がれているようです。

 

父称というものは、アラブ世界にも近いものがあるようです。

また、かつては名字に当たるものが無かったという地域、国も多かったようですが、日本同様に近代国家になった時に国民統制の必要から付けるように強制したという例が多数ありました。

いまだに名字が無いという地域もいくつかあり、ビルマは有名ですが、アウン・サン・スー・チーさんもその全てが個人名であり、よく誤解されるように「アウンサン」家の「スーチー」さんということではありません。

かつて国連事務総長を務めた「ウ・タント」さんも本当は「ウータン」さんですが、その「ウー」は成人男性に付ける敬称であり、名前は「タン」だけだったそうです。

 

世界の名前 (岩波新書)

世界の名前 (岩波新書)

 

 最近の子供の名付けに、かなり変なものが増えていますが、その理由に「他の子供と重ならない」という親の気持ちがあるそうです。

それがアイヌの伝統と共通であるということは知りませんでした。

そのつながりがあるのでしょうか。

一方、世界には決められた名前以外は付けられないというところもあるようです。

どちらが良いのでしょう。