平安時代末期、藤原氏の専制は崩れ武士が権力を握り、やがて鎌倉幕府の成立につながりますが、源平の戦いと一口で言っても源氏も平氏も一つのものではなく、様々な人々がそれぞれの思惑を持って動きました。
その中で、時代の脇役としてはもっとも大きな存在であった、源頼政と木曽義仲に焦点をあてて彼らの動きから他の多くの人々の動向を見ていきます。
源頼政は、その最後の位階から源三位頼政として知られています。
摂津源氏と呼ばれる、源頼光から始まる末裔の一族の出で、治承・寿永の乱が始まる以前から朝廷に仕えており、その頃には教養ある武家として認められ、武家歌人として貴族たちとも交流をしていました。
しかし、激動の時代となって武力が幅を利かせる時代になると平氏とともに一方の旗頭として都で政争に引き込まれてしまいます。
最後は、まったく自らは意図していなかった以仁王の挙兵に巻き込まれ、敗れて自害することとなります。
保元・平治の乱と呼ばれる平安末期の戦乱は、藤原氏の内部の争いが激化し、それに天皇や上皇が絡み、さらに源氏平氏の武家たちを戦力として使うこととなります。
しかし、その結果平氏が権力を握り貴族や他の武家を締め出すこととなりました。
源氏の嫡流、源義朝もその敗者として処刑され子供たちも散り散りとなってしまいます。
なお、この頃の京都での戦乱というものが、あのような狭い中でなぜ起きたのかということは、後の時代の戦争を考えているとなかなか想像できないようです。
当時の軍勢は、騎馬武者の指揮官が一族郎党を率いて弓を射る戦いをしていました。
彼らは、後の時代の城攻めのような戦いはしたこともなく、野戦で馬から騎射をすることしか経験していませんでした。
そのため、京都の中で屋敷を本拠地として戦っていても、その土塀で弓は防ぐことができ、大掛かりな土木兵器で土塀を崩すなどということは思いもよらず、弓が届かなければしかたないという戦いの様子だったようです。
そのため、狭い中でも中々戦いの決着もつかず、だらだらとした進行となっていました。
保元の乱では、勝者となった平清盛と源義朝がそろって殿上人となり貴族の末席に入ります。
しかし、清盛がそれ以前から官職を持っていたので少し上の官位となりました。
源頼政も第二陣の武将であったためさほどの功績を上げられませんでしたが、若干の昇格を果たしました。
この論功行賞では、平氏は一族の結びつきも固く清盛の推挙で他の人々も官位を得たのに対し、源氏は義朝の直属の部下は少なく孤立していた状態であったために、その後の勢力伸長もできませんでした。
それが源氏と平氏のその後の力の差に響き、平治の乱につながります。
平治の乱で藤原信頼についた源義朝は、その敗戦で切られ一族も処刑や流罪となってしまいます。
しかし、源頼政は最初は中立を保ったものの、途中で義朝側の攻撃を受けたことで応戦し、清盛方につくこととなりました。
そのため、義朝など河内源氏が壊滅したあとは源氏の中心として朝廷内で平氏とバランスを取るような立場に立たされます。
その後、平氏が全盛期を迎えるのですが、天皇家内の争いも絶え間なく、数々の政争が起きる中で後白河院の子の以仁王が、平氏が握る安徳天皇に対抗する皇位継承有力候補と見られるようになります。
以仁王を後援していた八条院とは源頼政は関係が深く、そのために以仁王派と見られるようになります。
以仁王には皇位を狙おうなどという気はなかったにも関わらず、陰謀ありと見られて流罪を言い渡されるのですが、それに対抗し挙兵した形となり延暦寺と園城寺との争いもからんで、大きな戦乱となりました。
源頼政もやむを得ず兵を動かしますが、その時にはすでに77歳で一度は出家をしていました。
宇治合戦で敗れ自害をしました。
木曽義仲は源義朝の弟、義賢の子供で、義賢が武蔵国大蔵の合戦で義朝の子の義平に討たれたのち、斉藤実盛の計らいで命を助けられ信濃の木曽に落ち延び、当地の中原兼遠に育てられました。
以仁王の事件以降、混乱を増していった中で兵をあげ平氏政権側の勢力を撃ち、信濃から上野、そして北陸を収めていきます。
そこには、父の義賢ゆかりの武士も多く、彼らを配下として収めた義仲はそのうちに以仁王の遺児北陸宮と出会い、その皇位継承を狙って京に攻め上ります。
惜しむらくは、配下に頼朝における平時家、三善康信、中原親能、大江広元などの統治能力に優れたものが無かったために、権力を握った後白河院の政治力には手も足も出せないことになったことです。
後白河院は、その当時は鎌倉で関東を抑えることに成功した源頼朝を朝廷で重用し、義仲に対抗させるという方策を取ることとし、京に迎えました。
義仲は結局は政治の駆け引きに敗れてしまいました。
頼政、義仲は、平清盛から源頼朝へと動いた権力というものについては、あくまでも脇役でしかありませんが、あの混乱の世の中でそれぞれが信じるように動いたということは見て取れます。
両者とも結局は敗れて死にますが、何か心に残しています。