「三種の神器」というと現代でもとても大切な宝物という比喩で使われます。
しかし、よく知られているように元々はこれは天皇家の累代の宝器であり、それを持っているということが天皇位にあることの象徴のように扱われてきたものです。
著者の渡邊さんは中世室町時代を専門とする歴史学者で、特に赤松氏が関わった嘉吉の乱を詳しく研究してきたのですが、その際に赤松氏が南朝の天皇の子孫を担ぎ出すとともに三種の神器を奪い天皇の正当性を主張しようとしたということから、三種の神器にまつわる事柄を本にしたということです。
そのため、平家の滅亡とともに海に消えた草薙の剣の話もせざるを得ず、話の幅が広がってしまいました。
三種の神器とは、八咫鏡、草薙剣、八坂瓊曲玉、でそれぞれ由来は古事記・日本書紀に書かれており神代にさかのぼる神話が伝えられています。
現代でも天皇の即位に際しては神器相承すなわち三種の神器が受け継がれる儀式が執り行われていますが、すでに推古天皇も神器継承と即位式を両方行ってからようやく正式に天皇となったと伝えられています。
三種神器をめぐる大事件が、平安時代末期の平家の滅亡の時に壇ノ浦において宝剣が海に沈んだということです。
平清盛の昇進と共に平家に権力が集まり、娘の徳子を高倉天皇に入内させ後の安徳天皇を産ませました。
しかし清盛の死後に各地の反平氏勢力が反乱を起こし、平氏は都を逃れて西方に向かいます。
その際に安徳天皇も連れ去るとともに、三種神器も持ち出します。
残った公卿たちにとってこれは驚愕の大問題であり、その対応については延々と議論を続けることになりました。
神器を取り戻すために平家と一時的に和睦をするべしという主張もあったようですが、源氏は平氏追討を優先し、軍事行動を続けてしまいます。
安徳天皇が不在となったため、次の天皇を即位させる必要が出てきたのですが、その際の問題点も三種神器の不在でした。
それをクリアするために時の実力者九条兼実が持ち出したのが、継体天皇即位の際には神器を帯びずに践祚したという前例でした。
さらに後白河法皇が「三種の神器は天下のどこにあっても天皇のものだ」といった理屈を編み出し、それを勘文として発出することで辻褄を合わせます。
そういった手を使って後鳥羽天皇を即位させたのでした。
しかし三種の神器は頼朝を通じて必ず確保するように命じていたものの、壇ノ浦の戦で平氏が破れ安徳天皇も入水した際に神器も道連れにされます。
神璽と鏡は木箱に収めらていたために海に浮かんでいたところを見つけられ回収されましたが宝剣はそのまま海底に沈んでしまいました。
戦後に宝剣探索のために多くの人を潜らせましたが結局は見つけることができませんでした。
宝剣が失われたといってもそのままにしておくことはできません。
朝廷の公卿たちはその処理策を協議し、結局は「宝剣代」つまり代わりの宝剣を選ぶこととしました。
その際に使われたのが「昼御座の剣」というもので、天皇が日中を過ごす場所「昼御座」におかれていた剣を用いるということでした。
しかしその後後鳥羽上皇が1210年になって、1183年に伊勢神宮祭主の大中臣頼俊が後白河法皇に贈った剣をそれに替えて宝剣とすると決定し、その剣は「神宮御剣」と称されることになりました。
このように、源平合戦の中で勃発した宝剣喪失という事態は、三種神器というものの存在を強く印象付けることとなり、その重要性がそれまで以上に感じられることとなりました。
その後、南北朝時代となり天皇家が持明院統の北朝と大覚寺統の南朝に別れて争う時代になると、三種神器の奪い合いという事態も頻発することとなります。
劣勢となった南朝側が形勢逆転を狙って三種神器を確保するということもあり、さらに神器の意味を深く印象付けることとなりました。
これは北畠親房が神皇正統記の中でも強調している視点であり、南朝が神器を保有していたからこちらが正統だという論理を展開することとなります。
足利義教と赤松満祐が争った嘉吉の乱は室町時代から乱世に向かう大きな事件ともなったのですが、義教を暗殺した赤松は将軍の代わりとして足利一族から、そして天皇の代わりとして南朝の遺児を探し出します。
そして、その天皇の権威を確保するために神器の強奪を企てます。
天皇位を約束された後南朝の一派の小倉宮たちにより、神璽と宝剣が強奪されます。
しかしその後幕府側にたった大名たちにより赤松氏は打ち破られ、神璽と宝剣も探し出されることとなりました。
ここでも、天皇位の象徴としての神器の価値というものが確認されたようです。
その後は現在に至るまで天皇家が保持しており即位の際にはその継承が儀式として執り行われるということですが、それを奪えば天皇になれるかというとそれはもう無理でしょう。